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死・マンガ表現・ツイッター

これから「ルックバック」についておしゃべりしようと思っている人に注意してほしいこと

 2021年7月19日に『ジャンプ+』で公開された藤本タツキの中編「ルックバック」は、公開直後から大変な反響を引き起こしている。良し悪しという意味での評価は別にして、この作品は読者に何か語らせずにはおかないというか、裏読みのようなものへの欲望を喚起せずにはいない構造がある。"Don't Look Back in Anger"をはじめとした、作品の至るところに散りばめられた「元ネタ」の数々、「バック」=過去=背中=……といったモチーフの連結、キャラクターの利き腕の変化は何を意味しているのかといったディテールに物語らせる仕組み、などなど。私自身もそうしたおしゃべりの欲求を強く感じている。
 一方で、この作品には非常にセンシティブな話題へのリファレンスが含まれており、かんたんにおしゃべりの対象にしてしまうわけにはいかない。作中に登場する殺人犯の台詞「元々オレのをパクったんだっただろ!?」は、2019年、まさに「ルックバック」が投稿された7月18日(正確には作品が公開されたのは7月19日の午前0時であり、18-19日の境目)に起こった京都アニメーション放火殺人事件の犯人の供述を想起させる。オアシスの1995年の楽曲"Don't Look Back in Anger"は、2017年にマンチェスターで起こった自爆テロの後、事件に対する黙祷のうたとして再解釈された。つまりこの作品には、少なくとも2つのテロ事件が重ね合わされている。こうしたモチーフを「元ネタ」として無邪気に消費してしまうことは許されないだろう。それに、ある視点からはこの作品がセンシティブな話題のモチーフを不用意に扱ってしまっているように見えるのも確かである。すでに作中の犯人の描写が統合失調症についての誤解を招きかねないという旨の批判がなされている。こうした批判には一定の説得力がある。少なくとも全く否定することはできない。他にも批判可能な描写はあり、新たな論点が提起されるのは時間の問題であるように思われる。

 だが、歓迎するにせよ非難するにせよ気をつけておかなければならないのは、これから見ていくように、この作品が読解に対してアイロニカルな姿勢を見せていることである。そもそも藤本タツキは、特に『ファイアパンチ』に露骨であるが、イメージを見ることと、そのイメージが何であるかということの関係性を懐疑的に見つめてきたマンガ家である。『ファイアパンチ』の主人公アグニは、死んだ妹ルナによく似た人物に対して、お前は本当は他人のふりをしているだけのルナなのではないか、と問いかける。そして、詳細は省くが、最終的にその人物は本当に「ルナ」になる。藤本タツキの作品は読者に読解というかたちで能動的な参加を促すようになっているが、同時に最終的な解答は決して与えられないようになっている。答えが出ないがゆえに読者同士のおしゃべりを無限に駆動する。その点ではSNS時代に適応した作家であると言えるかもしれないが、しかし同時にそうした読者側の「考察」に対する批評的な視点もところどころに垣間見える。要するに、あまり性格の良い作家ではない。「ルックバック」についておしゃべりする際にも、この性格の悪さを認識しておかなければ落とし穴にはまってしまう。
 こうしたことはある程度マンガを読み慣れている人からすればおそらく言われるまでもないことであろうが、残念ながら私たちが今いる世界においては、何か語ろうとする人が冷静さや留保を保つことが非常に難しくなっている。「ルックバック」にしても、これだけ話題になってしまった以上、近い将来「擁護」か「罵倒」かの踏み絵を求められるようになるのは目に見えているのである。この作品について道徳的にせよ美的にせよ価値判断を行うとするなら、何重もの留保をした上ではじめて可能になる。では、その留保とは具体的にどういうものか。この記事は筆者が整理できる範囲でまとめた、「ルックバック」に関するおしゃべりが考慮すべき話題とその注釈である。もちろん以下が全てではないし、他にも話したいことはいっぱいある。『まんが道』的なマンガ家マンガとしての側面とか、雨=涙のモチーフと放火の関係とか……。

 本当いうと、身内であまりにも「ルックバック」の話をする機会が増えたので、いちいち前提をすり合わせるのが面倒だから事前に文面にまとめておこうかと思って書いたのが本稿なのだが、誰かの役に立つかもしれないなと思い公開する。以下は私の友人との会話を通して考えられたものであるから、この記事のオリジナリティの全てが私のものではない。とはいえ書いたのは私であるから、文責は私にある。つまり褒めるときは私だけでなく友人たちも褒めて、批判するときは私だけを批判してくれということ。


この作品は藤本タツキの自伝か

 「ルックバック」は作者の自伝のように読めるモチーフが散在している。そもそもマンガ家についてのマンガであるし、二人の主人公の名前「藤野」と「京本」は、彼らが「藤本」が分裂した存在であることを暗示する。彼らが連載する劇中作「シャークキック」は、『チェンソーマン』に登場するサメのキャラクターと『ファイアパンチ』とを重ね合わせたようであり、つまり藤本タツキの発表作全般のイメージであるかのようだ。「京本」の「京」は、彼女が殺されそうになる(後述するが、殺人犯のシーンは極めて曖昧な描かれ方をされており、本当は「殺されそうになる」などと表現してはいけない)際の描写からしても京都アニメーションから取られたように見える。藤野は人物を描き、京本は背景を描く。これはつまり、藤本タツキにとって京都アニメーションが作品のバックグラウンドとして重要なものであったと言いたいのではないか。であれば「ルックバック」とは、作者が自身の人生とともに描いた、事件に対するある種の追悼である…………と、言いたくなる。

 だが、この作品に「藤本」は登場しないし、この作品が自伝的なものであるとは作者は一言も言っていない。確かにこの作品に自伝的要素を読み込まないことはできないし、読み込むなという人がいたら流石にそれは通らないだろうが、しかしそれでも「ルックバック」の自伝性はどこまでも読者側のレッテルに留まらざるを得ない。追悼としての側面についてはまた改めて触れよう。


殺人(未遂)犯とされるキャラクターは何を描いているのか

 作中で京本を襲う人物は極めて危うい描かれ方をされている。すでに言われているようにある種の精神疾患を抱えた人をステレオタイプ的に描いてしまっているように見える。しかも実在の人物へのリファレンスであるようにしか見えない。そんなキャラクターを唐突なかたちで悪役として登場させ、藤野がそれをキックで倒す、という描写を素直に喜ぶ人があったとしたら、その人は大変に不用意である。

 とはいえ、京本が殺されそうになるシーンのリアリティは極めて曖昧である。4コママンガの切れ端がドアの隙間から入り込んでからのシークエンスは、直前までの京本が殺されてしまった世界とは違う世界である。藤野の願望が投影された妄想の世界であるようにも見える。ところで、藤野は京本殺害の件についてどの程度のことを知っていたのだろうか。特に犯人についてはどうか。おそらく直接面会などはしていないだろうし、報道を通じた断片的なことしか知らないのではないか。要するに、現実における京アニ事件の犯人についての私たちの多くが抱えている認識と似たようなものではないか。作中に描かれる未遂犯の顔は、京本らと違って全体的にぼやけており、確固とした存在感を持つキャラクターというよりは抽象的な印象を与える。そうした抽象性を現実の放火犯に言及していることの証拠として読むことももちろんできる。だが同時に、藤野の想像の世界において、彼女が犯人について持っている情報の不確かさの証であるようにも見える。妄想の世界だからこそ、たまたま学校の前を通りかかって凶器を持った男を目にし、追っていってダイナミックエントリーめいたキックで倒すなどという、都合の良い行動を取ることができるのだ。とすると、作中の未遂犯の描写を単純にステレオタイプとして読むことは難しくなってしまうのではないか。犯人自体が藤野の都合の良い想像の産物である可能性を残しておくことによって、そうしたステレオタイプ的な描写の下らなさ、ナイーブさに自己言及しているようにも読めてしまう。さらに言ってしまえば、そうしたナイーブな想像とは、現実の事件の報に接した私たちの多くが抱えたものでもあったのではないか、マンガに描かれるキャラクターをすんなりと「現実」に結びつけてしまう私たち読者の振る舞いは現実の放火犯に向けられた偏見と同根でないか、という議論すら可能かもしれない。ともかく確実に言えるのは、作中で京本を殺害した人物が直接描かれることは一度もないということだ。

 自伝性の話題とも関わるが、この作品を「追悼」と呼ぶのであれば相当に慎重にならなければならない。なるほど、現実とは違うどこかの世界において「京本」を救う物語を描き、再び立ち上がって机に向かう藤野の姿は、作者なりの喪の作業と呼べるのかもしれない。だが、それにしては作中の事件の描写は、おそらく自覚的に荒唐無稽に描かれている。そもそも藤野が立ち上がったのは事件について妄想してみることによってではなく、京本の部屋の窓から剥がれた4コママンガに導かれて部屋に入っていき、彼女の生活の痕跡に触れることを通してであったのではなかったか。事件のシークエンスが終わった直後のページの藤野は、うなだれてしゃがみこんでいる。まるで「こんなものは所詮は都合の良い妄想で、こんなこと描いても仕方ないよ」とでも言っているかのようだ。京本が救われた世界が妄想ではなく別の並行世界で、その並行世界があったからこそ藤野が立ち直ることができた、という立場を採用するとしても、しゃがみこんでいる藤野のもとに4コママンガが滑り込んできたのは、事件とは関係のない風によってである。ご丁寧にも藤本タツキは、京本が自室の窓を開ける様子を描いておらず、京本が助かったからこそ窓が開いて4コマが吹き飛ばされたのだ、という解釈を退けている。

 だとすると京本救出のシークエンスは「ルックバック」という作品にとって一体何だというのか。私にもわからないのでここでは回答を差し控えるが、解釈しようとするなら最低限ここまで書いてきたような曖昧さや両義性を踏まえなければ、それは単なる読み飛ばしである。言い方を変えれば、こうした曖昧さに閉じこもっていることにこそ批判すべきものがある。事件へのシンパシーを喚起させつつ、肝心な点については回避しておくことによって、結果的には偏見を上手く利用したとも言えるのではないか。


「元ネタ」探しをしてもよいのか

 「ルックバック」には他作品へのリファレンスが大量に仕込まれている。特に話の構造は大部分において『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』だし、あまつさえ同作のソフトウェアのパッケージが作中に描かれすらしている。私たちはそうしたイースターエッグのような「元ネタ」を嬉々として探し、それが意味するところを「考察」し、Twitterなり何なりでおしゃべりを交換する。

 さて、作中には「パクリ」を糾弾する人物が登場している。もはやいちいち書かないが、彼は「元ネタ」探しをしている私たちと地続きであるように思われてならない。「元ネタ」探しと「パクリ」として読むことの違いとは何だろうか。明らかに作者が意図しているオマージュ/パロディと、たまたま似ている(ように読者には見えた)他作品との関連性とは、どう違うのか。『ファイアパンチ』に立ち戻るなら、ルナとたまたまルナに似ている人との違いとは何か。作者が、あなたの言う作品は参照していない、と言ったとしても、その人は嘘をついているのかもしれない。類似するイメージ同士が参照関係にあるかどうかということは、結局は見る側がどう扱うか、そうした扱いが世間一般で同意を得られるかどうかによって決定される。作者がインタビュー等で自身の意図を表明したとしても、それはあくまでいち判断材料に過ぎず、それを証拠として採用するかどうかも立場次第である。

 藤本タツキ自身、「元ネタ」探しにおいて作者の発言が占める地位についてアイロニカルに振る舞っているように見える。たとえば『チェンソーマン』に関するインタビューの中で、彼は登場人物の名前の「元ネタ」について説明した際、明らかにいくつかの参照先を意図的に語り落としている。「デンジ」は「天使」から来ているというが、別の場所で言及していた弐瓶勉の『アバラ』の主人公である駆動電次(くどう-でんじ)との関係も明らかではないか。「アキ」はAKという自動小銃から来ているというなら、アキの弟の名前がタイヨウであり、前作『ファイアパンチ』の登場人物サンと重なっているように見えるのはどうなのか。アキとタイヨウの兄弟は前作におけるサンとルナの関係に重なっているのではないか。つまり「アキ」とは中秋の名月のことではないのか。

 以上の疑いは全て筆者の妄想なのかもしれない。だが、そもそも「元ネタ」探しとは根本的にパラノイア(これも不用意な表現だがあえてこう書く)的な営みであり、「俺のパクリだろ」との違いは制度的なものにすぎないのではないか。

 「ルックバック」はいかにも「元ネタ」探しを誘うように作られている一方で、「元ネタ」探しを皮肉っているようにも見える。ルック・バック=背中を見る、というタイトルもそのことを示唆しているとすら言える。背中から何かを読み取る、背中で語る、とはパラノイアそのものである。何故なら背中は決して何も語らないからだ。背中は語らず、背中を見る人が勝手に好きなものを読み取るのだ。背中の後ろ側に何があるのかは見る人には分からない。平面的イメージの芸術であるマンガであればなおさらだ。背中を見せる藤野が何を思い、どんな顔をしているのかは、藤本タツキにも決して分からない。見る人は自分が見ている対象に縛られる。だから『チェンソーマン』で最も強い人物は、相手を決して見ないのである。

 

要するにどういうことか

 要するに、褒めるにしても貶すにしても、落ち着いて作品を見て欲しいのである。「ルックバック」はあらゆる要素を宙吊り状態に保っている。ただ称賛する人は作品の不適切さへの配慮を欠いていることになるし、ただ非難する人は作品が張り巡らせている留保を見落としていることになる。最終的にどのような評価をするかは各々の勝手だが、私からあなたにお願いしたいのは、「ルックバック」が手放しの評価を寄せ付けない、相互に矛盾する要素を混在させた作品であることにきちんと目を向け、対立軸を明確にしようとするような単純な語りを跳ね除けてほしいということた。SNSは慎重な姿勢を取ることを非常に難しくしているし、「ルックバック」がSNS時代に適応した作品であるというのもある意味では事実である。しかし作品が複雑であることも事実なのだ。何もかも単純化されてしまう状況を「そんなもんだよ」と受け入れることは馬鹿にだってできるし、馬鹿は勝手にしておけば良いが、一人でも馬鹿が減るのならそれはきっと良いことだ。