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死・マンガ表現・ツイッター

マンガ100

周囲でマンガを100本挙げるのが流行っているのでやってみようと思います。でも一気にやるのはしんどいので暇なときにちょっとずつ進めます。

これは嘘ですが、この流行りのきっかけには「さいきんいろんな作品集出てるけどどれもこれも団塊世代の視点で作られててムカつくよね」という会話がなかったこともないとのことです。嘘はどうでもいいですが、何らかのプロパーみたいな作品リストを挙げても仕方ないし、初めっから自分語りとして作品を列挙すればいいということなのだと思います。多分これも嘘ですが……。なので、必読とか良いマンガとかそういう冠はきっと不要なのでしょう。私はマンガを100本挙げる。それ以上でも以下でもないのです。

 

 

1. 平野耕太ヘルシング

卒論の題材にしたら優秀卒論賞をいただき、賞金として5000円もらった。その後の打ち上げで調子に乗って飲みまくってたら終電を逃し、5000円はタクシー代になった。いろいろ話したいことはあるが、この作品の狂気的な雰囲気は台詞が引用でできていることにあるのだと思う。「わたしはヘルメスの鳥……」は15世紀の錬金術に関する写本、「貴様らは震ながらではなく 藁のように死ぬのだ」は安田講堂事件の壁の落書き。微妙な文脈のズレが世界をポリリズムにしていく。文系の論文とは引用で作るものであってみれば、これを卒論の題材にした学部生の俺はなかなか悪くない。

 

2. PEACH-PITRozen Maiden

カタカナ表記の場合は厳密にはヤングジャンプ連載版のみを指す。そっちも良いのだが、バーズ連載のころの雰囲気が好きなのでアルファベット表記。ゼロ年代Rozen Maidenの時代だった。中学生の頃、詰め襟の内ポケットに蒼星石の人形を忍ばせることで自我を守っていたが、いつの間にかなくなってしまった。教室で一人で探していたら先生に見つかり、「人に見つかりたくないものを失くしてしまったんです」と言ったら一緒に探してくれた。人形は見つからなかった。

 

3. 模造クリスタル『ミッションちゃんの大冒険』

太宰治や藤村操、テオドルス・ファン・ゴッホのセリフを吐く人々。引用が多い点では『ヘルシング』と似てるのかもしれないが、こちらは物語に合うように上手く改変しており言葉の収まりが良い。初期の模造クリスタルはコラージュを多用していて、ガタガタの線とマッチして非常にかっこいいのだが、最近はかなり真面目に線を引いているようだ。研究とかに詰まると鉄格子ごしのおっさんのテンション高い顔がいつも頭に浮かぶ。「人生 それはわからん 人は何故生きているのか不可解なり」もぞクリお絵かき掲示板に出入りしてた位置原Zとか、それ以外にも阿部共実とか、つくみずとか、もぞクリの影響受けてるだろと思うマンガ家はけっこういる。その辺をまとめることのできる人間がいるとすれば黒瀬陽平だったが、消えてしまった。

 

4. Frank King, Quin Hall, Everett Lowry, Charles Lederer, Dean Cornwell & Lester J. Ambrose, "Crazy Quilt"

1914年の春から夏にかけて、シカゴ・トリビューンというアメリカの新聞に連載された合作マンガ。これを見たときの衝撃が俺のその後の研究キャリアを決定した。内容説明はめんどいのでググってください。英語がわからん人は俺の書いた論文(『マンガ研究』vol.26)を読め。見た目だけでも凄さはわかるはず。論文書いてわかったことだけど、この作品はあまりに特殊で他の研究とつなげにくい。

 

5. Frank King, "Corky"

で、上の作品の中核メンバーだったフランク・キングについて調べていくと、コイツは天才だったことが分かってくる。代表作はガソリン・アレーという新聞マンガで、たしかにこれは重要な作品なのだが、そのオマケとして1930年代に描かれていたCorkyをあえて挙げておきたい。あえるほどの知名度は日本ではないと思うけど……。たぶん作者は初期米国コミックスの画一的なコマ割り表現について徹底的に考えたのだろう。ガソリン・アレーよりも読みやすいのも挙げる理由。

 

6. 六田登『パパイヤネドコデネンネ』

完全に俺の個人的思い出に基づくチョイスであり、作品としてどうたらとかは知らん。たしか1999年くらいから『おひさま』に連載されるようになったマンガ(コマ割りがあり、吹き出しがある)で、当時俺は前後左右もわからん幼稚園児だった。情操教育とかのことを考えて親が買い与えていたのであろう『おひさま』は基本的には絵本の雑誌だったが、この作品だけ明確にマンガで、俺はこの作品にマンガのリテラシーを教えられていった。子どもが8人+猫1匹いる父子家庭で、ある日父親が入院し子どもたちが「そうなん」する話。ガキンチョ読者に言葉で説明しても仕方ないぶん、ニュアンスやエモーションが全面に出てきていた、気がする。もはや遥か昔の記憶なのでおぼろげである。太鼓マンみたいなのが出てきて入院中のパパイヤの前で太鼓を叩く話が頭に残っている。

 

7. 島本和彦逆境ナイン

なんやかんや理屈を考えても結局人のパルスに訴えるものでなければ仕方がないのである。パルスを正すのは一方的な情熱ではなく、一種の道化であることなのだとこの作品は教えてくれる。熱い道化であれ!

 

8. 松本大洋『ZERO』

これのあとにピンポンを描き始めるのってちょっとサディスティックだと思う。

 

9. 松本大洋竹光侍

すごい。

 

10. 松本大洋『ルーヴルの猫』

松本大洋は全部挙げたいくらいだけど、3つに絞った。巨大な瞳が涙の雫を海に落として音を立てるシーンの、美しい一方でここにいてはいけないと不安にさせる何か。

 

11. ゆうきまさみ機動警察パトレイバー

「やっていいことと悪いことがある!」という陳腐な台詞をこれ以上は期待できないほどに真実にした作品。オウム事件のあとにはこの台詞はさぞ切実に響いたことだろうが、当時を知らない俺には想像するしかない。


 

(一旦休憩。)



12. 市川春子『虫と歌』

大阪の天王寺の本屋で表紙買い。当時の俺えらい。「ヴァイオライト」の整っていない粉々な雰囲気が好き。人は助けようとした人を黒焦げにし、自らも粉々になってしまう。


13. 山本直樹『ありがとう』

ユリイカの仕事をもらったときに山本直樹を全部読めてなかったので既読も含めて全部ちゃんと読んだときに読んだ。Kindleで買ったらお姉ちゃんがフラッシュバックしてドット絵になる見開きのノドの余白が無視されて絵が台無しになってたので結局国会図書館でもう一度読んだ。父親なるものもまた人を助けようとして粉々にしてしまう人である。粉々になった家族は均質な粒になり、均質なニュータウン、団地、になる。読むと父親に優しくなる。


13. 月水優『園児服フランちゃんとエッチ』

たしか日本橋(大阪)の中古同人ショップで買ったのだと思う。いまや皆知っているつくみず先生のかつてのサークル名が「妹幻想自治区」であり、フランドール・スカーレットの同人誌を複数出していることも当然ながら皆知っていることである。アパートにぼってりと居るフランちゃんの存在感、電柱越しに聴こえる都市の「オオオオ……」、フランちゃんに園児服を着せてローターを突っ込んで散歩しながら真っ先にやるのが魚屋の店先で深海魚をつつくことであり、ここから『少女終末旅行』『シメジシミュレーション』までに至る驚くべき一貫性がわかるだろう。なによりこの同人誌は商業デビュー以降には描かれない現代都市の素晴らしいディテールに溢れている。しかもしっかり抜ける。


14. 竹本泉『夏に積乱雲まで』

竹本泉は何が面白いのか全然わからないけど間違いなく面白い。竹本はこれと『るぷ☆さらだ』あたりがお気に入り。間違いなくアナーキーなのに保守的と言われればそんな気もする。うじゃうじゃ。


15. 松本充代『青のマーブル』

神田の古本市で買った。表紙が地味すぎてそもそもマンガなのか小説なのかも分からずに直感的に買って、開いてみたらマンガで、しかもめちゃくちゃ面白いという幸福な体験をさせてくれた。考えるだけ考えて、仮初にすら答えを出さずに馘首するように終わる、毛羽立ったような短編の数々。「産む人の気がしれない」と吐き捨てて終わる話がずっと頭に残っている。


16. つげ義春「ゲンセンカン主人」

『ガロ』つながりで思い出した。つげは特定の書籍名を挙げる意味があんまりないので短編を挙げます。とにかくカッコいい。ひたすらカッコいい。


17. 林静一『ph4.5グッピーは死なない』

なんか自分の連想に振り回されていないか?しかもかなりありきたりな連想ではないか?まぁいい。社会批評としても読めるが、批評的な文体が持つ戦闘継続能力のようなものとマンガの形式との関係についてのメタ批評でもあると思う。トピックとトピックの間は、コマとコマの間は本当に繋がっているのか?説得されることとは説得されることを諦めることではないのか?苦痛スレスレな領域までダラダラ続けられる話は、おそらく緻密に読み進められるべきものではない。ちゃんと読むことを諦めた瞬間におそらく何かが分かる。


18. 橋本治『マンガ哲学辞典』

さっきからなんか似たような感じになってないか。やっぱりオートマティスムみたいに自分の連想に従属してしまっているようだ。次はできるだけ直前と関係ない作品を挙げるぞ。さておき、このマンガは単純に面白いだけでなく、日本のある時代においてコマ枠というものが持っていた意味を明らかにしてくれる。たぶん俺の世代は枠線を破壊することに大した意味は見いだせないのだが、その喜びは知っておいたほうが良い気がする。


19. 尾籠憲一『胎界主』

会う人会う人に勧めているのだがいかんせん長い上に序盤がけっこう厳しいし、しかも何周かして初めて分かってくるタイプの作品なのでなかなか話に付き合ってくれる人がいない。あらゆることを話したいが、特に気になるのはこの作品のソロモンとはマンガにとって何者なのかということ。『胎界主』の世界では何者か(たぶん作者が想定している一般読者というか、こっからここまでは自然な展開として受け容れられるだろうという規範意識)が因果関係の許容範囲を決めていて、作品の展開が無理矢理になると世界が歪んでしまい、歪んだ隙間から悪意に満ちた神々が侵入してくる。ソロモンは作品内に普通に設定されているキャラクターよりも遥か上位の存在で、その気になれば文字通りどんなことでも出来るのだが、神々のせいであまりに無理矢理な展開は作ることができず、全能性にストッパーをかけられている。その一方で、ソロモンが世界に干渉するたびに世界がそれをセーフと判定するかどうかてんやわんやすることによって、ご都合展開への許容度が大きくなる。ご都合展開が許されるかどうかということそれ自体がエンターテイメント化されているので、ちょっと無理矢理なことをしても自己言及的に「あぶねーギリ許されたわ……」という感じで処理できるし、しかもそれがナンセンスではないのだ。作者の都合と、読者がご都合展開に納得するかどうかということの間の折衝の空間にいるのがソロモンなのだ。これはコマ同士が繋がるとはどういうことかという問題にも関わる。繋がっていないように見えるコマはマンガではなくなる。マンガでなくなったときに『胎界主』の世界は崩壊するのだ。


20. 九井諒子ダンジョン飯

『胎界主』wikiを作ったのは九井諒子先生なんですよ。また連想ゲームかよ。もちろん連想だけで挙げてるのではない。ある時期から連発されるようになったビデオゲーム脱構築マンガのなかで、おそらくこれが最後まで残るのだろう。ほかの作品とは想定しているゲームが違うというか、普通はドラクエやFFが想定されているのに対してこちらはelonaとかdiabloな気がする。ゲームをする俺たちの中に本当にいるのは正義の勇者ではなくライオスだし、最適解だと思えば妹だろうが食う。


疲れたのでまた休憩。こんなペースでやってて本当に100本出せるの?