装置

死・マンガ表現・ツイッター

⑨の誘惑:東方Projectについての試論

(ごく一部の読者のために書いておくが、私は『赤の誘惑』を読んだことがない。)

 

 私は疲れると東方Projectの作中BGMをイヤホンで聴きながら周辺を散歩することがある。疲れていなくても徒歩移動の際にはイヤホンで聴きながら移動する。それをかれこれ十年以上続けているので、自分でも何か中毒的なアレにかかっているのではないかと感じるが、毎回全く同じ聴取体験をしているというわけでもなくて、しばしば新しい発見がある。

 さて、東方Project第九段である『東方花映塚』に収録された曲、「六十年目の東方裁判 ~Fate of Sixty Years」を聴きながら歩いていたある日のことである。前々からこの曲を聴くたびに、ときおり不自然に鳴る「ポッ」というような電子音を不思議に思っていた。ここに曲へのリンクを直接貼るのは憚られるので各自の方法で聴いてほしいが、イントロからドラムがリズムを刻み始めてしばらくした頃(申し訳ないが私は音楽的な語彙が全然ないので適切な指示ができない、気合で分かって欲しい)、電話をかけたときに聴こえてくるような「ポッ」という音が鳴っていないだろうか。

 一体これは何なのか。なんとなく試しに、私はこの音が鳴るタイミングに規則性があるのではないかと思い、「ポッ」が鳴ったあとに次の「ポッ」が鳴るまでの間の拍を数えてみた。するとわかったのだが、この音はきっちり九拍ごとに鳴っているのだ。

 これは一体何を意味しているのか。ひとまず私は『東方花映塚』を起動し、作曲者であるZUN(以下、東方ファンの通例として彼を「神主」と表記する)がこの曲に宛てたコメントを読んでみた。

 

四季映姫・ヤマザナドゥのテーマです。明らかにラストっぽい曲です。ラストはメロディアスな曲が多いのが東方の特徴。今回はさらに日本+再生+桜の国、というイメージを盛り込みました。力強さと儚さが同居するこの曲は、いまだ見られない最も美しい桜の国の為の曲です。全体的にお馬鹿なこのゲームも、この曲だけは強い思いで。

(『東方花映塚Phantasmagoria of Flower View.』二〇〇五年、Music Roomより)

 

 花映塚はずっと前に買って曲コメントも全部読んだはずだが、改めて見ればなんと恐ろしいことが書いてあることか。「六十年目の東方裁判」が収録されたゲームが発売されたのは、二〇〇五年八月の夏のコミックマーケット(夏コミ)である。夏コミは例年、いわゆる盆の時期に開催される。それは言い換えれば日本の終戦記念日と重なっている。この年は終戦六十周年であった。終戦からしばらく経った一九四六年、日本の戦争犯罪者を裁くために行われた極東国際軍事裁判は、「東京裁判」という別名でも知られる。そんなタイミングで神主は「六十年目の東方裁判」という名前の曲を発表し、「いまだ見られない最も美しい桜の国のための曲です。」というコメントを添えていたのだ。

 彼の思想信条はともかく、これらのテクストは、東方Projectというコンテンツそれ自体を戦後日本のナショナリズムと結びつけてしまっている。なにせ、わざわざ「東方」というコンテンツに自己言及するような語句を用いているのだ。現実の東京裁判が一九四六年五月三日から開廷された(極東国際軍事裁判所条例が制定されたのは同年一月一六日)ことを鑑みるなら、二〇〇五年の夏コミの時点では東京裁判から五九年三ヶ月が経過していることになり、「六十年後」や「六十周年」ではなく「六十年目」とされた理由もこれで分かる。同じ表記から読み取れるのは、「東方裁判」は六十年前から当時に至るまでずっと続いており、また未だに進行中であるということだ。

(なお蛇足だが、二〇二〇年八月現在、ニコニコ大百科やpixiv大百科でこの曲に関する記事を読むと、いちおう戦後云々という事情についても触れられているのだが、ともに東京裁判との関係性を「~という説もある。」などと遠ざけるような書き方がなされている。pixivの方では唐突に現実の東京裁判の不公平性についての記述が始まる。)

 一方、「六十年目」には作中の物語における意味も用意されている。物語の舞台である幻想郷は、外界(これは現実の私達の生きている世界とよく似ているとされる)からの干渉を防ぐために結界で覆われているのだが、この結界は六十年周期で不安定になるとされる。それは、六十年周期で結界の外側の世界に幽霊が増えるからなのだという。先の大戦のことを考えるとなかなか皮肉の効いた話ではあるが(しかもゲーム内では戦争によって発生した幽霊であることが示唆されている。霊夢エンディング参照)、それは置いておこう。なぜ周期は六十年なのか。『東方紫香花』に収録されたZUNによる小説「六十年ぶりに紫に香る花」で語られているところによれば、自然というものは、日と月と星の「三精」、春夏秋冬の「四季」、そして火・水・木・金・土の「五行」から成っており、それら三系統が年ごとに順番に回っていくことでバランスが保たれている。それらをかけ合わせた数である六十とは、自然が一巡する周期なのだ。

 こうした作中設定を参照しなかったとしても、日本では六十年といえば「還暦」すなわち十干十二支が一巡する周期でもある。戦後六十周年とは、いわば終戦の還暦であり、太平洋戦争にある種のリセットが起こるということでもある。作中の設定が現実の状況と重ね合わされているのは明らかであり、先に引用した楽曲コメントで言われていた「再生」もまた、六十年周期で起こるに違いない。「六十年ぶりに紫に香る花」では以下のように言われている。

 

「今年は、日と春と土の組み合わせの年なのよ。それは六十年に一度しかやってこない。そしてそれが意味する所は、あらゆる物の再生」

(ZUN「六十年ぶりに紫に香る花」『東方紫香花 ~Seasonal Dream Vision』虎の穴、二〇〇五年、一七七頁。)

 

 さて、最初に私が聴き取った「九」という数字は、ここまで出てきていない。六十は多くの約数を持つ数字だが、そのうち一桁のものは一から六までである。「六十年目の東方裁判」に周期的に現れていた九の正体は結局わかっていない。まさか『花映塚』が東方の九作目であるからという、ただそれだけのことでもあるまい。

 考えているうちに思い出したのだが、六十から弾かれた七~九について言及した東方Projectのテクストが存在する。『東方香霖堂』第十九話「龍の写真機」および、第二十六話「八雲立つ夜」である。関連する箇所を抜粋してみよう。

 

「三稜鏡は、中に何かが入っているわけではない。この三角形と言う所が重要なんだ」

 三という数字は、完全と調和を意味する。三脚は平らではない場所でも安定して立つが、これが脚が増えて四脚以上になっても、当然二脚以下に成ってもぐらついてしまう。蛇と蛙と蛞蝓の様に、三すくみならお互い牽制し合い喧嘩が始まらないが、二人や四人以上だとすぐに喧嘩が始まってしまうだろう。

(…)

「虹とは、龍の通った跡だという事は言うまでも無い。だから、三稜鏡に何か――この場合は光を通すと、虹が作り出される訳だ」

(…)

 龍は、その世界に不調和を持ち込み、その不調和から森羅万象を生む様に世界を変えた。その完全の『三』に足された虹の『七』色によって、世界は『十の力』で構成される様になったのだ。

(ZUN『東方香霖堂 ~Curiosities of Lotus Asia.』アスキー・メディアワークス、二〇一〇年、一三七-一三八頁。)

 

「実は、八という数字は夜と密接な関係が有るんだ。八も夜も「や」と読むだろう?」

(…)

「英語の『エイト』と『ナイト』、ラテン語の『オクト』と『ノクト』、ドイツ語の『アハト』と『ナハト』……他にも世界の言語の多くが八と夜が似ているんだ。これでも偶然かい?」

(…)

「結論から言うと、数が多い『や』に八の字を当てたのは、八が大きい数だったからに過ぎない」

「八が大きい数?もっと大きい数なら幾らでもあるぜ?」

「いや、一桁の数字で考えると九が最大だが、八も九に次いで大きな数字だ。でも九は久、つまり永久を意味し、昔から無限を表していた。漠然と多いという状態は有限だから、感覚的に無限よりは少ない事が判る。だから、九の一つ下の八の字を『や』に当てた、といった感じじゃないかな」

「ふーん。元々八は『や』とは読まなかったと言うのね? それが夜と何の関係が?」

「八ではなく夜が『や』だったんだよ。非常に多いという言葉に夜を当てたんだ」

(同上、一九五-一九六頁。)

 

  世界に完全さを付与する七も含めて、一から八までは有限の数であり、周期によって秩序を作り出すが、九は無限であり、秩序を逸脱する。同時に興味深いのは、九は八の次、すなわち夜が明けた後にやってくる朝であるということだ。それはもちろん、再生の謂であるが、しかし九の再生は、有限の数の乗算から現れる六〇年周期でやってくるものとは異なる、無限の世界への跳躍を必要とする全く異質なものであり、再生というよりも新生と言うべきものであろう。

(ちなみに、第二十六話「八雲立つ夜」の末尾には「数字を、ただの個数を表すだけの言葉だと思ったら大間違いである。そう思って周りの物を見てみるといい。巧妙に隠された秘密が見えてくるかも知れない」(一九七頁)という記述がある。私はこれを神主からのメッセージと見て、今回の記事を書くモチベーションを得た。)

 九と再生の関係については、二〇〇七年の書籍『東方求聞史紀』にヒントが読み取れる。この本は稗田阿求というキャラクターによって編纂されたという設定だ。阿求は、『古事記』の編纂者とされる稗田阿礼が、その記憶力を世に役立てるべく「転生の術」を繰り返し、死後何度も蘇っていった先の九代目とされる。その本の「あとがき」で神主はこう書いている。

 

で、今回、阿求が九代目なのが何故なのかと考えると、独白は面白い置き換えが出来ると思いますが……ま、それは別の話。

(ZUN『東方求聞史紀一迅社、二〇〇七年、一六五頁。)

 

「独白」とは、同書の後の方に収められた阿求の手による文章であるが、そこで彼女は「転生の術」を九回目である今回で止めてしまう可能性に触れている(一五三頁)。八代目まで繰り返されてきた転生は、九代目にあって疑問視されるようになっている。阿求は転生を打ち切るか、八代目までとは全く異なるかたちで生まれ変わるか、あるいは永久の九として不死となるのかもしれない。いずれにせよ、もはや幻想郷は、言ってしまえば日本は、今のままの繰り返しではいられないのである。

 「六十年目の東方裁判」には、曲名に掲げられた六十という有限数の周期を裏切る、九の周期が埋め込まれている。阿求に照らして言えば、本当に求められるべきは六十の転生ではなく、有限から無限へと飛躍する九への新生であり、八=夜からの夜明けであろう。これはしかし、絶望である。そもそも無限とは絶対に到達できないものだ。先に書いたように「東方裁判」は、少なくとも二〇〇五年八月の時点では進行中であり、終わっていない。曲のコメントにあるように、「最も美しい桜の国」は「いまだ見られない」。日本は有限性の範囲内では再生するが、新生すなわち「東方裁判」の結審は無限に先送りにされ、夜は来れども決して明けることはなく、我々は(おそらくは今現在も)永続敗戦のただ中にいるのだ。

 

 そして最後に、九といえば、東方Projectのファンにとってはお馴染みの数字でもある。それは他でもない、「六十年目の東方裁判」が収録されたゲーム『東方花映塚』のマニュアルの「画面説明」に端を発するミームである。これはオンラインでも参照できる。

 

omake.thwiki.cc


 

 いまやこれを単なるギャグとして看過することはできないだろう。九は全てを救う数字だが、しかしバカの数字でもある。「阿求=阿Q」もまた愚か者の名前である。神主は「最も美しい桜の国」を夢見つつ、それがバカなものであることをも暗示している。

 こうしたコンテンツが、日本のみならず、太平洋戦争において日本に侵略された国も含めた世界各国で消費されているのだ。