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コロンバス旅行記26:コマ編

最後の週の始まり。ハースト紙を1904年まで読み終わってから、1896年に戻って世紀の変わり目に何が起こったのか見極めることにする。他にもピューリッツァーやベネットの新聞も読みたいけど時間足りない。近いうちにもう一度来ないといけない。今回の旅のマイレージが溜まってて、ドル換算で還元できるやつだからまぁ次回は多少は楽だろう。

読み始めたらいきなりイエローキッドの有名な蓄音機エピソードに出くわす。イエローキッドの載っているページは二重にカバーリングされて保護されていた。もはや御神体である。にゃむにゃむ。実物をよく見るとキッドの肌はかなり黄色い。まぁ蓄音機のページが黄色の二色刷りだからだが。キャラクターの肌の色は印刷の問題でもある。

「リトル・ジミー」の最初期はコマにほとんど番号を振っていないことに気づく。この頃は基本的に振るので大きな変化だ。多少は番号が書いてあるのだが、読み順を指示するというよりは物語の区切りを示すものへと役割が変わっている。区切りのない作品では番号が全くなかったりする。だが、連載が進むにつれて番号が復活していき、やがて全コマ振られることが増える。おそらくは編集者側の配慮だろう。アーティストと編集者の軋轢のようなものを感じさせる。コマの枠線も最初期はかなりフレキシブルだったが、やがて全コマかっちり引かれることが増える。今となってはよくわからないが、枠線は番号と同じくわかりやすさに奉仕すると考えられていたのかもしれない。

1904年序盤の紙面は日露戦争をフィーチャーしたネタが散見される。マガジンセクションについている双六とか紙相撲とかの切り取って遊べる子ども向け紙面でも、日本対ロシア戦争双六とか、転載なのかよくわからないが日本のアーティストが描いたらしい戦争の絵とかが登場する。そういったコンテンツが「フォクシー・グランパのワンダーランド」みたいなタイトルのコーナーとして提供されていて、楽しい祖父役としてのコミックスのキャラクターに地球の裏側の戦争で遊ぶことを教えられるというなかなか興味深い状況が生まれていた。

日本のバイト先でご不幸があってバイトも香典を包むか包まないかみたいなラインが飛んでくる。バイトなんて香典出すには関係性遠すぎるしパスすると伝える。すると後から決まったこととして、香典は職場一同の名義で出すが、誰がいくら出したか詳細を明記するらしい。なんて馬鹿馬鹿しいことを考えるのか。要するに職場の力関係を確認する場として香典を使いたいだけではないか。一気に帰国したくなくなる。異国から見る母国の闇は母国にいるときよりも暗く見える気がする。