装置

アメリカの古いマンガ研究の話がまったくされない

働いていて本を読む気になれないなら、スマホに電子書籍を読み上げさせて聞き流せ

話題の三宅香帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』を読んだ。いかにもハウツー本的なタイトルで読者を惹き、内容もそうした要求にきっちり応えながら、少しずつ問いをズラしていき、最終的には著者が本当に話したかったのであろう教養主義論・労働論・ジェンダー論を読ませようとする手腕に感服した。単に良い文章を書くだけでなく、マーケットを意識したフォーマットにできるというのはとても羨ましい。私もいつかこんなことができるようになりたいなあ。

それはそれとして、私はこの本をスマートフォントークバック機能を使って音声化して読んだ(聴いた)。トークバックというのはAndroidでの呼び方だが、iPhoneにも似たような機能はあるはずだ。簡単に言うと、Kindle電子書籍スマートフォンが読み上げてくれる機能だ。そもそもは視力にハンディキャップを持つ人々を支援するための機能であるようだが、バリアフリーとは結局は全ての人間を助けるものだ(都内の鉄道駅をバリアフリーにしたら大荷物の運搬が簡単になってコスプレイヤーたちが助かった、という話をどこかで聞いた気がする)。私はこの機能をかれこれ10年くらい使い続けている。詳しい使い方はググれば出てくるので詳述しない。本読みの人たちは多かれ少なかれ皆使っているものと思っていたが、友人たちに聴いてみると案外知られていない機能であるらしい。三宅の本の末尾にある「働きながら本を読むコツをお伝えします」でも触れられていなかった。オーディブルのことは皆けっこう知っているが、オーディブル対応していない書籍でも電子化さえしていれば音声化できることは、じつは知られていないようだ(なお、現状で読み上げに対応している電子書籍Kindleだけであるようだ)。

スマホに読み上げさせた電子書籍をイヤホンで聴きながら、そこらを適当にそぞろ歩くと、本は読めるし運動にもなるしで最高だ。通勤・通学時間中に本が読めることになるのも良い。私事ながら、昨年は初めての非常勤講師をするに際し、ほぼ毎日PCの前で文献を読みつつ資料を作り続ける毎日で、気温が下がっていくにつれて腰とか肩とかに痛みを感じるようになってきた。Kindle読み上げ散歩は運動と気分転換を兼ねながら本も読めるので、とても良い。

しかし、それではじっくり読むという読書に特有のまったりした体験は失われてしまうのではないか? と思われたあなた、まぁ気持ちはわかる。本読みの原風景というのは、なんかぼんやりめの照明が点いた部屋で、コーヒーだか紅茶だかをすすりつつ、時間を気にせずに没頭する、みたいな感じでしょう。文字列を自動的に流れる音声にしてしまうと、よくわからないところがわからないままに流れ去っていってしまう。私にしたって、自分の研究と密接に関わる文献については流石に机に向かって時間をかけながら読んでいる。コーヒーも飲む。でも私が言いたいのは、読書するときのフォーマットは複数あったほうが、より柔軟に読書ができるということだ。机に向かって時間をかけるフォーマットだけを何時間も続けるよりも、机に向かう時間と音声化散歩とに時間配分したほうが、頭が切り替わって、むしろ本の内容は入ってきやすくなる気がする。

なにより、『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』で提起されていた問題に対するひとつの答えになると思う。この本を読んだ方なら、働いていると本が読めなくなるのは、単に忙しいからだけではないと著者の三宅が論じていたことをご存知でしょう。問題は読書に限らず、現代に生きる私たちが、趣味も仕事も含めた公私あらゆる事柄について、全力投入しなければならない=全力投入でなければ意味がない、と思い込まされるような状況にあることだと同書では論じられる。現代社会で、私たちは次のような義務感を、誰に言われたのでもなく感じ続ける:自分がやることには自身の全てを賭けなければならない……読書のような仕事と分離した時間を取ることに罪悪感を持たなければならない……趣味をしたいならそれは仕事と融合するような形にしなければならない! 三宅はこうした状況認識の上で、仕事にせよ趣味にせよ、全身ではなく半身で臨めるような社会こそが、より豊かであり、より健康的であると説く。

さて、以上にまとめた『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』の内容は、私がKindle読み上げを聴きながら散歩して覚えた内容に基づいている。散歩中、私は三宅の書いた内容を聴きながら、しかしそれに没頭していなかった。本の内容と同じくらい、たまたますれ違った中国人留学生の集団の楽しそうな声とか、ほぼ全ての壁に公明党のポスターが貼ってある一軒家とか、そういう道すがらの光景も覚えている。つまり、半身で読書をしていた。上の文章を書く上で、書籍の記述を改めて見直したりもしていない。なのでどこか不正確なところもあるかもしれない。しかし、これこそが三宅の提案する半身の社会、半身の読書なのではないかと思う。机に向かって没頭していなくてもいいし、書籍の内容が書籍とぜんぜん関係ないノイズと混ざり合っていてもいい。多少聞き逃したっていい。

その一方で読み上げ機能は、通勤・通学の合間に本を読むのに非常に適しているのも事実だ。言い換えれば、わずかな余暇(スキマ時間とも呼ばれる)をも読書という有意味な活動に投入することを許す技術であり、読書に対する全力投入を補助するツールとも言える。その意味で私は散歩をオススメしたい。とはいえ、音声化のいいところは、内容が自動的に流れていってしまうことによって、いわば私たちに半身を強制する点にある。音声を全て記憶することは人間には不可能だし、絶対に何かを聞き落とす。それが良いのである。文化的なものに全力投入しなければならないと考えてしまう私たちに、半身でいられる時間を提供してくれるのが電子書籍の読み上げなのである。

ちなみに、当たり前だが、電子書籍も文体によって読み上げ機能に適したものとそうでないものがある。読み上げたときに内容が入ってきやすい書き方と、そうでないものがある。三宅の文体は読み上げに非常に適している印象を受けた。一方、学術系などの硬めの文章は音声になるとスッと入ってこないことが多い。まぁしかし、それでも何も覚えていないということはない。半身とは半分身が入っていないというだけではなく、どんなに無視しても常に一部は身が入っているということでもある。そのうえで私としては、電子書籍がますます普及していく中で、将来的には、音声読み上げしたときに聴きやすいか否かという評価基準が、書き手に導入されるのではないか、などと考えている。

なお、現状の読み上げ機能で耳から読書をするうえでは、残念ながらと言うべきか、本を選ぶ必要があると思われる。たとえば、対談や鼎談のようなそもそも音声の文字化として作られた文章は聴きやすい。逆に、小説などフィクション系の文章は、それぞれの登場人物の声色などを読者が自分で組み立てることも重要なので、無機質で単色的な音声に変換される読み上げ機能には向いていないだろう。この点に関しては、肉体を持った読み手が登場人物ごとに声色を変えることができるオーディブルに軍配が上がる。全部が同じ声に還元される読み上げ機能は、研究や批評といった、具体的な身体から解き放たれた声として語ることを基本とする文体の側に寄ってしまう。と同時に、本格的な研究の文体になってしまうと聴きにくくなってしまうというのが、読み上げ機能で読書をするジレンマである。それはそれとして、たとえばドゥルーズ=ガタリ『アンチ・オイディプス』などは、あまりにも読み上げに向いておらず、内容が全く取れないのが逆に音楽みたいで面白かったりするので、何でもやってみると良いと思います。

新コロンバス旅行記19:また来年編

調査最終日。あっという間だった。この日記はその翌朝に書いている。空港行きのUberの到着が遅れるらしいのでポンヤリと待っている。

再びリーディングルームで授業が行われる日で、マッケイの原画や日曜コミックが机に並べられていた。その隅の方で黙々と『ヘラルド』を読む。

特にボロい紙面のセットをスーザンにめくってもらいながら調査する。ページを送ってもらうたびに"next, please"と言っていると、「nextだけでいいよ」と言われた。こういうときに日本人性みたいなものを感じる。丁寧さに対するオブセッションというか。結局"next, please"で通してしまった。

これも今回気づいたことだが、『ヘラルド』日曜付録として所蔵されている資料は1903年秋までである。それ以降の紙面もあるっぽいが、目録の上では『ヘラルド』ではなく特定の作品名で所蔵されているらしい。かくして、ライブラリの『ヘラルド』は一旦全部読み終わった。若干時間が余ったことをスーザンに伝えると、マッケイの日記のコピーなるものを出してくれた。すごすぎる。しかしやや筆記体すぎて俺では読めなかった。とりあえず写真だけ撮らせてもらう。

暇乞い。英語で気の利いたことを言う能力なんてないので、もうとにかくThank you, I appreciate等々を擦るしか謝意を伝える方法がない。ジェレミー・クラークソンがどっかで言っていた気がするThank you thousand timesとかも言ってみちゃったりして。本当に、天地神明にかけてスタッフの皆さんには感謝しているし、相手もわかってくれていると頭では思うのだが、言語の壁があるとどうしてもちゃんと伝わっている感じが薄くなってしまう。また来年会えますかと聞かれる。申請している補助金が通ればあるいは。できれば毎年来たいが、バイトも若干怪しくなってきてるし、金の問題をどうにかしないと。

食料の目算を誤り、若干余らせてしまった。持ち帰るにも検疫が必要そうなベーコンなどを泣く泣く捨てる。

新コロンバス旅行記18:被写体編

帰国が近づいてきて緊張してきた。いま帰っても白米が食えないという噂ではないですか。帰国便は通路側席が取れたらしいので幾分か楽っぽいが……。

マッケイ関連の切り抜きがランダムに入っている箱を調査。「リトル・ニモ」やその舞台版の広告などをざっと見る。広告を調査するのって大事なんだろうけど、資料の大半が箸にも棒にもかからん内容で、調査の中でも修行感が強いジャンルな気がする。まぁ俺が社会学の訓練をぜんぜん受けていないというのもあるのだが。とにかく見たという事実が何かを作ると信じてめくり続ける。

『ヘラルド』も引き続き調査。コミック・セクションが徐々に女性向けコンテンツと融合していく。伴って、子ども(ほぼ男の子)と母親をテーマにしたマンガが主流になっていく。「バスター・ブラウン」はそういう紙面状況の中での主役コンテンツだったわけで、つまり子どもと母親両方に読ませるマンガだったと捉えられる。ディストリビューションが作品を規定するのだ……さらにこう言ってよければ、ディストリビューションが家族関係やジェンダーを構築するのである……なんて言えば、いかにも表象文化論らしいハッタリではないか。

地元のTV局がライブラリに取材に来て、俺が研究している様子を撮影していった。俺以外に調査しているやつがいなかったのでちょうどよかったらしい。ちょっとカメラの前で喋らないかとも提案されたが、英語に自信がないと言って断った。俺が「ニモ」の広告をゆっくりめくっている様子が10月にコロンバスで放送されるらしい。不思議な縁だ。

疲れた疲れたと何度も言ってきたが今度ばかりは流石に本当に疲れてきた。ターゲットに行ったらスタバが出したエナジーコーヒーなるものがあったので、明日の朝用に買ってみた。

新コロンバス旅行記17:書くの忘れてた編

9月4日のぶんを書いていない。忘れてたと言うよりは流石にもう疲れてきたので寝るのを優先したというほうが正しい。いまは9月5日夕方17時半。昨日もいろいろあった気がするけどあんまり覚えてない。瞬間的に印象の強いことはツイッターに書いちゃってるから、一日経つともう記憶が薄れている。

ドーナツ屋で再びジャイロを頼む。ポテトを頼むには胃がしんどい気がしたので単品。フィリー・ジャイロというのがあったのでそれにする。調べてわかったけど、ジャイロというのはもともとギリシャ料理らしいのだが、アメリカではもはやオリジナルのジャイロと具が違っても(それこそフィリーでも)ジャイロと呼ぶらしく、要するにホットドッグ的な形をしたサンドイッチ程度の意味らしかった。注文してしばらく待ってたら、普段はレジでは見ない顔のおっさんが奥からやってきて俺の名前を呼んだ。返事をすると、適当なドーナツを掴んでジャイロの袋の中にポイッと入れてから渡してくれた。異国の地でこういうことしてもらえると泣くほど嬉しい。お礼を言って出る。フィリー・ジャイロはプルドポークではなくハンバーグみたいなのが挟まっていた。

『ニューヨーク・ヘラルド』の入った中性紙の箱を開けると、「この新聞は特に脆いので、フルタイムで働いているスタッフの補助無しで触ってはならない」みたいなことが書かれた紙が挟まっていた。スタッフのみんなにいろいろ話を聞いたが、めんどくさそうなので明日に回す(ネタバレ:その「明日」でもまた面倒くさくなって後回しにした)。ページを直接触らない範囲でちょっとだけ見てみた感触では、『ヘラルド』日曜版の内容がけっこう変化していった時期に当たるらしく(マンガが減り、母親向けの文章コンテンツを増やすことで、「子ども」と「母親」の2方向にリーチするような付録にしようとしている?)、いずれにせよ調査しなければならない。

また熱くなってきたが、明け方は寒くて目が覚める。日本はちょっと涼しくなってきてるっぽいので、ぼちぼち帰りたみが増してきた。

新コロンバス旅行記16:ポコポコ編

調査再開。しかし資料出納の依頼を送るのが若干遅かったせいか、朝来ても資料が出終わってなかった。午後までには出るとの旨。しゃーないので既に出してもらっている資料のボックスに入っている、今回の調査の狙い(1900年代の日曜付録を読むこと)とはあんま関係なさそうな新聞を読む。

『ボストン・アメリカン』というハースト傘下の新聞のスポーツ欄がまとめられたフォルダを発見。ちょうどジャック・ジョンソンがジェームズ・ジェフリーズを煽り倒していたときの紙面だった。その頃の紙面はなんとジョン・L・サリヴァンが編集に携わっており、毎回サリヴァンのコラムが掲載されている。ジェフリーズとか知らない人でも、アイアン・マイケルが柴千春と戦ってるときに出てきた亡霊ジョン・L・サリヴァンのことは知っているかもしれない。

スポーツ欄にはほぼ毎回紙面の四分の一くらいの面積のカートゥーンが載っている。で、実際読んでみてわかったのだが、この時期のハースト紙のスポーツ欄は、バド・フィッシャー、シドニー・スミス、ジョージ・ハリマン、TAD、ハリー・ハーシュフィールドなど錚々たる面子が揃っている黄金期的な時期だったのだ。以上の名前は柴千春とは関係無いので知らないのが普通です。ともかくめちゃくちゃ豪華なマンガ家が揃っていたのだ。そういえばこのころはハーストが西海岸の方からスポーツ欄で活躍していたマンガ家を一通り引き抜き終わって、スポーツ・カートゥーニストという概念がまさに確立しつつある時期だった。この辺のことはEddie Campbell の The Goat Gettersという本を参照してください。そんなこと言われてもわからないって人は、書名でググったら多分俺がジャーナルに書いた書評が出てきます。

さておき、この頃のスポーツ・カートゥーニストは非常に自由で、アナーキーな表現をのびのびやっていた。どのくらいアナーキーかというと、まずスポーツ欄なのにスポーツと全然関係ないマンガが普通に載っている。もともとスポーツ関係のカートゥーンだったのが、だんだんそのカートゥーンのキャラクター自体が人気になっちゃって、そっちをメインにした作品が出たりしたのだ。そういう作品も、たとえば5コマ目まではきちんとエピソードを描いて、最後の6コマ目でいきなりアーティストの近況報告が始まるとか、既に制度化されていた日曜付録と比べると格段に自由だった。読者層が大人だったというのも関係していたのだろう。そんなわけで面白くなっちゃって読むのが止まらなくなり、本来予定していた資料の準備が完了しても、ちょっと出納を待ってもらって読み進めてしまった。

午後から次の資料へ。いろいろ請求したが、まずジョン・ケインメーカー・コレクションから。ケインメーカーというのはウィンザー・マッケイの伝記を書いた人で、伝記の作業に使った資料がコレクションとして残されているのだ。別にマッケイの専門家になるつもりはないので一応目を通しておくくらいのつもりだったが、しょっぱなからいきなりマッケイとヘラルド社の間で交わされた契約書のコピーが出てきて前のめりになった。1908年の時の(おそらくは)契約更改時のもので、新聞一面に絵を描くごとに100ドル(当時の100ドルは本当にすごい額)、それより小さいサイズの作品は面積の割合をかけた額を報酬とする、云々。

ほかにもいろいろあったのだが、一番圧倒されたのはマッケイの兄、アーサーの入院時の記録が束で出てきたことだ。アーサーは精神を病んで入院し、マッケイ家はそれを家族のタブーとしたのか、ファミリーヒストリーからほとんどアーサーの存在を抹消してしまったとされる。ケインメーカーはアーサーが入院していた病院に手紙を送り(その手紙もコレクションに入っている)、当時の担当医師の診断書や入院記録を大量に集めていたのだ。たしかアーサーのことは伝記の中ではほんのちょっとしか触れられていなかったはずだ。伝記を書くとはこういうことなのだと示された気がした。

なんというか、マッケイについての情報というより、伝記作家の異様な熱量が感じられる資料の物理的存在感そのものがまことに感動的で、時間切れで作業が終わったときには疲労で頭がぼんやりした。仕事をしていたスーザンに感動を伝えたくて、手をバタバタしながらゴタゴタの英語で話したら笑ってくれた。

帰宅してピザ食ってたら、隣の部屋からポコポコと泡の音が聞こえてきた。さっきすれ違ったらいつにもまして大麻スメルが強かった。あいつ……ボングで吸っとる! エアビーで借りた部屋で毎日大麻吸ってるの、幸せそうではあるけど、なんかもっとこう……なんかないんか。

新コロンバス旅行記15:レベル8編

積んでた論文を読んで1日を終えた。だいたい授業準備の一環である。あんまり言うことない。レイバー・デイでどこも休んでるので外出もしてないし……。アルゼンチン人の同居人が引き払ったので部屋を掃除する人が来たくらいかな。

そういえば、滞在3週間目でようやくまともなパスタが作れた。電子レンジの出力を9段階中の8にしたらちょうどよくパスタが茹だることがわかった。出力1000Wと書いてあったから出力半分くらいかと思っていたのだが、熱はよくわからん。あとターゲットじゃない方のスーパーで買ったトマト缶がかなりよかった。ターゲットより安いし。

あと5日くらいで帰るとなんて信じられない。早すぎる。帰りの飛行機はトラブルがないと良いが……。

新コロンバス旅行記15:やる気編

今日もライブラリ休み。流石にちょっとは授業準備進めておきたいが、全くやる気が起きない。というか、要するに何をすれば良いのか、どこが目的なのか不明瞭な状態のことだと思われる。よく考えたら俺は外国マンガの授業をやるというのに、読んだことのない海外作家が多すぎる(研究調査はしているので、正確には偏っている)。インプット不足で腕が動かないのだ。いやまぁ本当は手持ちの情報だけでもでっち上げることはできるのかもしれないが、そういう作業は、上で言ったのとは別の意味でやる気が出ない。

というわけで、せっかくアメリカにいるんだからコミックブック・ショップに行こう。前回滞在時にも行った大学北の店へ。前回はバスの乗り方がよくわからなかったから、片道1時間くらい歩いて往復したが、流石に今回はバスに乗る。最寄りのバス停に行ったら新たな「1ドルくれ」爺さんがいた。今回は白人だった。前にあった婆ちゃんには1ドルあげたのだから、この爺ちゃんにもあげるべきか? と思ったが、なんか急にスッと心が凪いだので、無視して隣のバス停まで歩いた。

到着。店内はけっこう人がいた。一通り見て回る。日本マンガの棚が前回訪問時より増えている気がする。伊藤潤二のための棚が作られていたのが印象的だった。最近人気だとは聞いていたけど、日本にいる限りはあくまで噂のようなものとしか感じられなかったので、なんかこの一文は日記というよりは学校の作文みたいになってきて楽しくないので落とし所を作りません。クラムの『ミスター・ナチュラル』、ジャック・カービーのモノグラフ的な本(Evanierのやつ;日本だとなんか高騰している?)、スタッフイチオシ棚にあった日本文化好きの若者たちの青春物語っぽい"Weeaboo"を購入。しめて75ドル! たぶん次の授業で貰える給料より、授業に備えて買うマンガの総額のほうが高くなると思う。

帰りのバスは遅延しているようなので、俺が逃げる動きがバスの追いかける動きと重なりそうなタイミングになるまで歩くことにした。コミックショップのあるあたりはクリントンヴィルというらしく、デカい家と教会がたくさんある居住地区という感じで、緑が多くて歩いてて楽しい。しばらく歩いているとバス停の真ん前にFive Guysが見えた。アメリカのハンバーガーではここがオススメとよく言われる店だ。前回はUberで頼んでフーンという感じだった。バスはあと10分、買って帰るにはちょうどいいかもしれない。

注文にえらい苦労してしまった。まずセットがないことに気づくまで10秒くらいかかった。ハンバーガーを頼むとトッピングを聞かれたが、まぁ余計なもんはいらんだろうとプレーンのままにしておいた。あとで気づくのだがこれがマズくて、Five Guysのハンバーガーはトッピングなしだとマジでバンズとパティとあとなんかメニュー名に描いてあるチーズとかベーコンのみが挟まっただけであり、野菜類が一切入らない。トッピング前提なのだ。そして更にマズかったのは、Five Guysはちゃんと注文を受けてから作るので、マクドナルドとかと同じスピードを期待してはならないということだ。なるほどだから美味しいんですね! つまり、俺はバスを逃したのである。

しょーがないので残りの道のり30分をシェイクを飲みながら歩く。気温は前日までよりだいぶマシで31℃くらい。シェイクはイチゴ味を頼んだ。クラッシュしたイチゴ果肉らしきものが入っていて美味しかったが、喉がめっちゃ乾いた。シェイクの味のリストに「ベーコン」ってのがありましたが、あれの場合はベーコンが入っとるんでしょうか。ベーコン味のシェイク……?

帰宅するとポテトがしなしなになってしまっていた。チポトレの3倍近く払ってこれは悲しい。バーガーは先述の通り還元主義的な構成になってしまっていたが、肉とバンズがそもそも美味いのでよかった。