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死・マンガ表現・ツイッター

コロンバス旅行記3:時差ボケチキン編

27時間くらいぶっ通しで寝てしまった。よく考えたら飛行機のせいで往路は24時間以上起き続けてたし、そこから3時間くらいの睡眠でライブラリに行ったのだった。俺はそういうことができるタフな人間ではない。ミートボールの残りに「メイヨア」をかけて持参したサトウのごはんと一緒にかっこむ。

今日は特にやることないのでコミックショップでも覗こうかと思ったが一番近いところでも6マイルくらいある。デイビッドに自転車借りればいいのだろうが、昨日大学まで歩いた話をしたときに「こりゃ貴方に自転車借りる必要はないだろうな」みたいなことを言ってから27時間しか経ってないしなんか小っ恥ずかしい。それに土曜日は治安悪くなるとのことだったので今日は部屋で大人しくしていることに。

本読みしてたが14時位になると急激に眠くなった。日本時間だと午前3時くらいで、いつも就寝している時間だ。なるほどこれが時差ボケってやつか。目も手も動かなくなったので大人しく寝る。

KFCのグレービーをナメナメする夢を叶える時間だ!UberEatsでチキンとグレービーとグレービーのかかったマッシュポテトを注文。しかしなぜか1回目の注文がキャンセルされる。店を替えて再度注文すると今度は届かなかったのに配達完了通知が来る。ドライバーに連絡しなければならない。まだ人に文句言えるほど英語に自信ないよ~。でもやらなきゃいけないので意を決して電話。つながらず。アプリが自動で返金してくる。なんなんだよもう。そうこうしているうちにKFC閉店時間。諦めてバッファロー・ワイルド・ウイングを注文。これも気になっていた。食べた感じなんか多分韓国のチキンってコレをやりたかったんだろうなと思った。

現在深夜1時。外が騒がしくなってきた。土曜は騒がしくなるというのは本当らしい。KFCが届かなかったのも街が混乱していたからだろうか。そういえば友達にA24関連のアパレルがあったら買ってきてほしいと言われたのでいくつか店を見てみたがだいたいアメフト関連のものばかりで、胸に"Make Michigan Our Bitch Again"と書かれたシャツがあってビビった。

コロンバス旅行記2:初日編

Billy Ireland Cartoon Library and Museumのリーディングルームは事前にメールでアポイントメントを取っておく必要があり、使用できる時間も1000-1200および1330-1530と短い。ガッツリやるなら朝イチで行くべきである。というわけで8時に起きる。時差ボケであんまり寝てない。あと何故かあまりお腹が空かない。グローサリーで買ったミートボールと米みたいな形のパスタとサーモンアボカド寿司はどれも微妙だった。寿司は持参したキッコーマンをかけたら途端にウマくなったので、単に味になれないだけだと思う。ともかく寿司だけ詰め込んでさっさと出発。

デイビッドによると大学までは徒歩でも行けるがちょっと遠いので自転車を貸してくれると申し出てくれた。でもGoogleによると徒歩24分くらいで、俺が毎日東大まで歩いてる距離より短いし歩くことにした。アメリカの道は全部直線で起伏がなくて圧倒される。飛行機から見下ろしたサウスダコタ州のあたりの地平線まで続く碁盤目状の農地には感動と畏怖を感じた。ともかく移動は東京のヤケクソみたいな地理よりずっと簡単ということ。碁盤目状の都市設計は古代中国に起源があるはずだが、アメリカ人たちはアジアを参照したのだろうか。

住宅街の道すがらなんどもリスを見た。東京のハトくらいのノリでそこら中にいる。サイズもハトくらいだ。リック・アンド・モーティで実はリスが地球を支配しているという話があったが、こういう日常があってこその発想だったのだなと分かる。

ドライバーの母ちゃんは大学あたりはとにかく危険だと言っていたが、そもそも皆車移動なせいで人が全然歩いていない。だから安全と言えるのか、それとも危険なのかはよくわからない。たまにすれ違う人はどう見ても大学生ばかりである。夜になるとパトカーのサイレンがそれなりの頻度で聞こえてくるが、夜出歩かなければまぁいけるんじゃねという気がする。これ自体がバイアスな可能性もあるのでなんとも言えないが。サウスパークに出てくるような黄色いスクールバスを見てちょっと興奮。

誰かに殴られたりすることなく目的地に到着。パブリックサービスコーディネーターのスーザンが出迎えてくれて、たいへん丁寧なガイドをしてくれた。とりあえず俺が何に関心を持っているのか話す。アメリカに来てから自分の英語の下手さに辟易していたが、興味のあることだと比較的簡単に単語が出てきてくれる。アウトコールトは新聞に場所を移しても絵のスタイルは雑誌の頃から大きくは変わらなかったのにオッパーはガラリと変わるの面白いと思うんすよね、みたいな。初日はボブ・ビンディグというアーティストが残したスクラップブックを読んでみる。面白いものが載っていたし人に読ませることを意識した紙面になっていたけど、マジで単にスクラップブックなので出典とかがなく研究に使うには不向きだった。オッパーがレズリーズで働き始める前はブロードウェイの近くのデパートで値札とかチケットとかに添える絵を書いてたとかそんな話が仕入れられた。

本読みしてたら日本文化研究のデイヴィス先生が日本語で話しかけてきてくれた。日本語話すの十年ぶりくらいなので下手だったらごめんねと言っていたが全く問題なくて、自分の英語のことを思ってちょっと凹む。名刺をいただく。

ランチについて訊いたらスタッフが近所のレストランやファストフードのリストをくれた。片手に近所をぶらつく。いろいろあるけど基本的に窓がマジックミラー気味になっていて店内が窺い知れない。結局見知った顔ということでサブウェイに入る。何故か6フィートという単語が出てこず店員の兄ちゃんを待たせてしまう。兄ちゃんがマイヨア?みたいなことを聞いてきてよく分からずやきもきしてたら彼が片手に持っているのがどう見ても「マヨ」だった。こういう細かい英語のミスが本当に恥ずかしい。サンドイッチは名前がよくわからんので適当にメニューの一番上にあるやつを頼んだらチーズがたくさん入ってて美味しかった。

帰りに大学近くのグローサリーに行く。アパレルから家具からなんでも売ってる大学生向けらしい場所だった。俺がアメリカで研究以外に密かに自分に貸しているミッションがいくつかあって、その一つがクソ甘いシリアルを食べながらテレビを見るというものである。ちなみに優先度最高はKFCでグレービーをしこたま舐めることだ。とりあえずシリアルから達成することに。オレオが固まってできてるらしいシリアルがあったので手に取る。シリアルの箱がどいつもこいつもデカすぎる。こんなの食べ切れるのだろうか。あとはプリングルスとかスニッカーズとか潰しが効きそうなやつを買っておく。レジはセルフサービスになっていて英語を話さなくていいのでちょっと嬉しい(それでいいのか)。でかいペットボトルの牛乳を持ち上げたらさっそく液漏れした。

時差ボケと寝不足のせいか部屋に戻ったらまだ17時なのに死ぬほど眠かった。デイヴィス先生と弁護士とデイビッドにメールを送る。寝転んだら壁にデカい穴が空いているのに気づき、覗き込んでみると隣の部屋と繋がっていた。なんか嫌なので机を移動させて塞ぐ。

ちょっと寝るかと思い目をつむったら気づけば今は深夜3時である。腹減ったけどとりあえず朝まで寝る。今日は土曜日でライブラリは閉まってるし、コミックショップとかKFCに行ってみようかな。

コロンバス旅行記1:往路編

オハイオ州立大学のコミックスライブラリ目当てに単独コロンバスに行くことにしたので、旅行記みたいなものを毎日簡単に書いていこうと思う。

まぁ初日は全部移動なのでコロンバスの話は少ない。ユナイテッド航空で移動したのだけど、機内食のチキンが東アジアだからなのかビビンバ風に味付けされていて「この飛行機の中ではまだアメリカは容赦してくれているのだな」と思ったとか、前の座席の人が夕食と朝食両方断ったらCAのおっさんがビビってたこととか、寝たら到着時(夜9時)に寝られなくなるから起き続けるために映画4本見たとか。

シカゴでのコネクション時に国境警備隊に別室に案内されてビビった。初渡米だからか?ビビってる上に眠い上に練習もしてないので英語が全然出なくてはずい。大学院生だって?専門は?コミック・スタディーです。沈黙。もっとそれっぽいディシプリンを名乗ったほうがよかったのかな。まぁいいやって感じで判を押された。オヘア空港のスタッフはみんなスキあれば相手がスタッフだろうが客だろうが関係なくジョークを飛ばしてきて、それに対しみんなでワッハッハというのが延々繰り返されてて、コミケの待機列みたいだった。年2回しかないコミケ待機列よりすごい。

コロンバスに着いてUber呼んだらシットコムに出てきそうなコッテコテのアフリカ系おばあちゃんがやってきて、「あなたの滞在先は毎週土曜日になると無法状態になるよ」「あなたの英語は下手くそだし絶対カモられるから道行く人に何か言われてもガン無視しなよ」「私はママもグランマも両方やったからこういう話し方なんだよガッハッハ」等の助言をしてくれた。

宿泊先はシェアハウスとだけ事前に伝えられていたが、なんかめぞん一刻みたいなやつだ。内装はなんとなくジェイコブ・リースとかの20世紀転換期テナメントを思い出す(失礼である)案内してくれたデイビッドは大変親切で、Uberドライバーに言われたことを訊いたら、土曜日はみんな酔っ払うだけで無法ではないよとのことだった。閉店ギリギリでグローサリーに連れてってもらう。いかにもデリカテッセンにいそうな兄ちゃんがデリカテッセンをやってて、いかにも閉店間際にレジ打ちやってそうな爺さんがレジ打ちやってた。帰りにデイビッドが用があるとのことでベイプ屋に寄ると、これまたピクシブのイラストランキングで受けそうな見た目のダウ系ブルネットへそ出しねーちゃんが店番してて「これは大麻っぽいけどFAKEだよ~」みたいな話をしていた。

なんかアメリカに来てから見聞きしたものがいまのところテレビやスクリーンに出てくるステレオタイプそのものに見える。アメリカはそもそもステレオタイプに寄っていくものなのか、それとも俺の想像力が貧しいのか。

『チェンソーマン』の糞とゲロ

はじめに

 以下の文章は、藤本タツキのマンガ『チェンソーマン』に出てくる糞とゲロについて色々考えたものだ。

 この文章はもともとは『チェンソーマン』第1部の内容に基づいて書いたもので、11月の文フリで出すマンガ批評同人誌に載せる予定だった。しかし書いている最中は『チェンソーマン』第2部が7月から連載再開することを何故かすっかり失念していた。7~11月の展開を知らない状態で書いた『チェンソーマン』論を出してしまうのはちょっとマズい。なので、元々の文章に加筆訂正してブログ公開することにした。場合によっては、再修正版を同人誌に改めて収録するかもしれない。

 もうちょっと同人誌の話をさせてもらうと、11月に出す同人誌は「不快」をテーマに設定した。簡単に言えば、最近はあらゆる場所で楽しむことが至上命題とされていて、不快なものは端的に遠ざけるべきということになっている気がするんだけど、本当は不快感とか嫌なものについてこそちゃんと考えなきゃいけないんじゃないの、というような違和感について、マンガと一緒に考えていこうという感じだ。もちろん、嫌なものを積極的に受け入れろみたいなお説教を垂れるつもりはない。嫌なものは遠ざければいいのだが、遠ざけ方にもいろいろある。嫌いなものを完全に抹消するのは難しいし、私たちは多かれ少なかれ、不快なものと隣り合って生きていかなければならない(これを書いている最中にも、コップに入れたオレンジジュースに小バエがダイブしてきた)。だから、何かを嫌うということについて、あくまでそれが嫌いだということは保ったままで冷静に考えるための語彙や道具を整理しておきたいのだ。「実はお前はそれが好きなのだ」とか「不快だけど取るに足らないから無視すればいい」みたいに、不快を割り引いてしまう話し方ではなく……。

 『チェンソーマン』は不快マンガである。不快マンガではない。奇抜なユーモア、完璧な画面構成、圧倒的なスピード感によって私たち読者に快感を与え続けてくれるこのマンガは、しかし連載を通じて不快感を中心的なテーマとしてきたのである。主人公であるデンジは常に美味しいもの、気持ちいいもの、楽しいものを求めている。しかし、というか、だからこそ不快なものが重要となる。繰り返し登場する2つの不快なモチーフ、「糞」と「ゲロ」に注目することで、『チェンソーマン』という気持ちいい作品が、不快なものについてどのように捉えているのかを探ってみたい。

 

「糞好き」[1]

 『チェンソーマン』第一部が『少年ジャンプ』本誌上で完結してから約3ヶ月後、コミックスに関する英語圏のWEBジャーナル『コミック・ジャーナル』に同作についての論考が発表された[2]。筆者オースティン・プライスが論考につけたタイトルは"I Like Crap"だ。このタイトルを翻訳するのは見た目ほど簡単ではない。これは『チェンソーマン』22話における主人公デンジのセリフから取られている。デンジが職場の先輩である姫野と朝食を取りながら会話する場面だ。日本語版では以下のようなセリフが連なっている。

 

姫野:…そういやデンジ君もマキマさん好きなの?

デンジ:超好き

姫野:…例えばマキマさんの性格が糞でも好き…?

デンジ:糞好き[3]

 

 "I Like Crap"は最後の「糞好き」の英訳としてある。アマンダ・ハレーによるこの訳[4]は、日本語を母語とする者にとってはすんなりとは受け入れられないだろうが、興味深い読みを提示している。日本語版においてデンジが言いたかったのは「糞(みたいに)好き」ということで、この場合の「糞」は程度の激しさを意味する言葉として副詞的に用いられている。英語版の「糞」(Crap)は、動詞「好き」(Like)の目的語であり、「糞(が)好き」ということだ。日本語版を基本とするならこの解釈にはやや首をひねるところもあるが、とりあえず英語版をそれ自体として読もう。その場合、英語版のデンジが言いたいのは、マキマの性格が糞であったとしても、そもそも糞が好きだからマキマも好きだ、ということではないだろうか。

 この解釈をいったん通過すると、日本語版の台詞もまたそのように読むことが可能であることに気づく。プライスは『チェンソーマン』全体をつらぬく糞(的なもの)への愛を指摘している。この作品はあらゆるものをあまりにも刹那的に消費・消化する。他作品・他ジャンルへの大量のリファレンスがしれっと挟まれ、大した意味も与えられないままに通過される。魅力的なキャラクターたちは次々と感慨なく殺される。主人公のデンジはそうした健啖を象徴する存在だ。彼はあらゆるものに飢えていて、だからあらゆる誘惑に簡単に屈する。何かを我慢しようとしても長続きしないし、落ち込むことがあっても別の良いことがあれば一瞬で忘れてしまう。言うなれば彼は理想的な消費者なのだ。言い換えれば、彼にはかけがえのないものは何もないということだ。それは彼自身についても当てはまる。第1話の時点で彼は既に腎臓、右目、そして金玉まで売り払ってしまっている。『チェンソーマン』の世界には絶対的に大切なものは存在せず、全ては食われ、糞になって下水に流される定めにある。

 だがそれは世界の否定ではない。プライスは第76話、銃の悪魔に殺された犠牲者の名前が画面を覆い尽くすシーンに「藤本が(…)少なくとも私たちの最悪の悪魔どもとは手を組んでいない」証拠を見て取る。「民間人の犠牲者の名前を次々に読んでいくことに(…)退屈と疎外を感じるとすれば、それはまさしく、名前を読むことが退屈で疎外された経験だからだ。それは一種の記録であり、全ては廃棄されうるものだという『チェンソーマン』の世界をかたちづくっているエートスに逆行する記憶の儀式である。それは、世界から何の意味も持ち得ないといわれた諸々の名前に意味を貸し与えるための行為なのだ。」デンジは、あるいはこの作品はあっけなく消費され終わるもの、糞として流されるものを、まさにそうであることにおいて肯定しようとしている。それはデンジに借金を残して死んだ「糞親父」(第1話)への、何も心に残さない「糞映画」(第93話)への、消化されたマキマへの愛着である[5]

 こうした「糞好き」を、単一の作品を超えてメディウムとしてのマンガのテーマとして考えることもできるだろう。マンガとは、イメージをコマとして次々と消費していくメディアである。私たちはマンガの読者として、与えられたイメージをバクバクと飲み込んでは視界の外へと排泄していく。全てのイメージは他のイメージとの関係において存在し、作者がどれだけ時間をかけて描いた絵であっても、次のコマに向けて読み終わられる定めにあるし、またそうであることによってのみ作品の一部である。もし作品からひとつのコマを取り出してかけがえのないものとしてしまったら、つまりコマを作品を構成するネットワークから独立させてしまったら、もうその作品は読めなくなってしまうだろう。だから『チェンソーマン』の結末において、デンジはシリーズの黒幕的存在を食べて消化するのだ。デンジにとって愛することとは食べることによって対象との距離をゼロにし見えなくすることだったという才華の指摘[6]は、優れた作品論であるとともに、メディウムとしてのマンガの運命を語ったものとしても読める。

 ただ、私たちがいま問題にしているのは食べることよりも糞をひって流すことだから、イメージの私との距離がゼロになることよりも、見えないほど遠くなる・・・・・・・・・・ことについて考えるべきだろう。マンガを読む時、私が直前まで視線を向けていたコマは、客観的には読み終わられた後も視線のすぐ近くにあり、眼との距離はいま読んでいるコマとほとんど変わらない。だが主観的には事情が異なる。私たちは読み終わられたコマ・・・・・・・・・を見ることは決してない。さっきまで見ていたコマに視線を戻してしまうと、それはただちにいま読んでいるコマ・・・・・・・・・になり、物語の世界における現在になってしまうからだ。糞はすぐそこにあるはずなのに、私たちは糞をそれ自体として見ることはない。流され終わった糞へのノスタルジアだけが周辺視野に感じられる。

 実際、『チェンソーマン』は登場人物の台詞として驚くべき数の「糞」を記しているが、イメージとして目に見えるかたちで(直接的にも比喩的にも)「糞」を読者に提示したことは一度もない。人間が潰され、バラバラにされ、消費されているまさにその瞬間を描き続ける。だが死者に長々とかかずらうことはしないし、ましてや死者のために復讐するなどもってのほかである。どうしても廃棄物に思いをはせたいなら、なるべくふざけた、復讐なんて下らないということを確認するようなかたちで、たとえば金玉を蹴り上げる「大会」[7]を開くという風にして行わなければならない。

 要するに、プライスの批評を引き継ぎながら本稿が「糞」と呼んできたものは、直接的には不快な対象ではない。おそらく『チェンソーマン』において「糞」とは、厳密にはこれから糞になるもの・・・・・・・・・・であり、予告と諦観が入り混じった態度の表現なのだろう。にもかかわらず、「糞」は不快と無関係ではない。

 デンジは全てを潜在的に糞であるとした上で肯定するのだが、言葉を換えれば、そうした世界観は全てを予め糞であると定義することで、真に受けることを拒否している。「糞好き」のデンジは地面に落ちた食べ物であろうが極悪人であろうが根本的には拒否しない。何であれどうせ糞になるのだから。それはある意味では寛容の究極的な形態である。全てを消費対象としてかけがえのなさを否定した上で成り立つ寛容  ジャン・ボードリヤールはそうした寛容を、彼が「「道徳的」寛容」と呼ぶものと区別している。「「道徳的」寛容」の詳細は曖昧だが、それは消費社会における寛容とは異なり、システムのうちに包摂できないものを許容することを意味しているようだ。それに対し、消費社会の寛容は「イデオロギー、世論、美徳と悪徳などが極端にいえばもはや交換と消費の用具にすぎず、あらゆる矛盾したことがらが記号の組み合わせのなかで等価物となることを意味しているだけのことだ」。それは表面的には寛容の精神のように見えるが、消費社会の中で生きる人は意識するとせざるとに関わらず全てを等閑視するようになるというだけのことで、精神的なものとは関係がない、ということは道徳とも関係がない。「寛容とはもはや心理的特性でも美徳でもなく、システムそのもののひとつの様態」なのである[8]

 ところで、何かを糞呼ばわりすることは、軽蔑の身振りでもある。シアン・ンガイは寛容と軽蔑とがいくつかの点で類似していることを指摘している。その論理はボードリヤール寛容もどき・・・・・の議論と似ている。私たちが何かに寛容になるのは、それが不快であることを前提としつつ、実質的には無害であると言うときである。あるいは寛容とは、対象に無能の烙印を押すことであり、わざわざ拒否する必要のないもの、変革を引き起こす可能性がないもの・・・・・・・・・・・・・・・・へと加工するパフォーマンスである。こうした弱体化において寛容は軽蔑とよく似た役割を果たす[9]。ンガイは、ボードリヤールが消費社会のシステムの効果として捉えたものについて、情動論的な分析を加えたと言えるかもしれない。彼女もまた、こうした軽蔑的な寛容は本来の寛容とは別物だとしている。対象を弱体化せず、それが自分に決定的な打撃を加えてしまう可能性を保った上で、それでも受け入れるという苦渋の決断だけが、真の意味で寛容と呼べるのだ。

 「糞好き」の世界では欲求の強度だけが問題となり、すごく欲しいかあんまり欲しくない(遠ざけたいということではなく、わざわざ行動するほど欲求が強くない)か、という程度問題だけがあって、何が欲しいのかはあまり問題ではない。デンジが誰かを守るのは正義感ではなく、胸を揉みたいとかセックスしたいとかの欲求のためであり、それよりも深い理由がないからこそ死ぬまで戦うことができる。欲求を超えた大切なものの存在を主張する者に対しては「夢バトル」[10]を仕掛け、何が欲しいかという対象の問題をどのくらい欲しいかという強度の問題へとスライドさせようとする。「夢バトル」では、他でもないあれ・・が欲しい、という選択や決断は笑い飛ばされてしまう。それはどんなものであろうが欲求の対象として平等に扱うという意味では寛容であり、一切のかけがえのなさを否定するという意味では軽蔑である。

 全てを潜在的=実質的ヴァーチュアルにゴミと見る世界には、許容できないという意味で不快なものはない。だが、「糞好き」の世界観は同時に、もしゴミでないもの、かけがえのないものに出会うことがあったとすれば  流されない糞を目のあたりにすることがあれば  それは不快な体験に違いないことを予感してもいるのだ。

 

「ゲロだ!!」[11]

 『チェンソーマン』において「糞」は目に見える対象としては登場しないので、私たちを不快にすることはない。では直接的に描かれている不快とは何か。ゲロである。ゲロとは消化できなかったもののことであり、「糞」への抵抗としてある。加えて、直接描かれるせいで私たち読者を端的に不快にすることができる。

 消化できなかった・・・・・・ものは、消化できない・・・・ものではない。酔っ払った姫野に口移しで飲み込まされたゲロがデンジにとって不快なのは、彼に「口に入れた栄養になるモノを飲み込むクセ」[12]があるからだ。第1話で彼は高利貸しにタバコを飲み込まされそうになるが、飲み込むフリをするだけだった。タバコも口に入れればもちろん不快だが、その理由はゲロとは異なる。タバコは栄養にはならない。私たちはすごく頑張れば他人のゲロを飲み込んで栄養にすることができるのかもしれないが、どうしても無理である。『チェンソーマン』においてゲロが象徴するのは、消費すべく差し出されているにもかかわらず消費できないという不快なのだ。

 デンジは食べられるものが食べられなくなること、食事が滞ることへの不安をたびたび吐露している。戦いのあと、なぜ自分を助けたのかと問うレゼに対し、デンジは現在の自分の消費者としての生活を守りたいのだと応える。どんなに酷い目にあっても「次の日ウマいモン食えりゃそれで帳消しにできる」が、「ここでレゼを捕まえて公安に引き渡したら/なんか…魚の骨がノドに突っかかる気がする」[13]。レゼを連行したくないという気持ちは、食事を飲み込むことの失敗、および今後の食事への支障という比喩で語られる。姫野にゲロを飲まされたときにも、今後「キスのたびにゲロの味を思い出すのかな」[14]と心配する。「糞好き」である彼にとっては、将来的に差し出されるものを消費=消化できなくなることは恐怖なのだ。

 その恐怖は、第80話で「ウマいモンを食いまくっ」[15]ても帳消しにできなかったアキの運命において現実のものとなってしまう。アキを自らの手で殺してしまったあと、デンジは「何見ても何考えても糞にな」[16]ってしまい、買い食いしたアイスもその場で吐いてしまう。「糞好き」の意味はここで決定的に変化することとなる。

 これは、食べられるものをあえて食べないという我慢あるいは留保とも異なっている。『チェンソーマン』では、あえて消費をしないというかたちで発揮される能動性は信じられていない。第2部冒頭のあの露悪的なシークエンス、クラスのみんなで飼った鶏の悪魔をあえて食べないという情操教育への白けたまなざし[17]は、そうした能動性への嫌悪が作品を貫いていることを示唆している。デンジが物を食べられないとすれば、それは能動性以前の生理的な嫌悪によってでしかありえない。ゲロが(食べられるのに)食べられない理由は論理的に裏づけられない。言い換えれば、生理的な水準では、私たちは自分が何を嫌がるのかを自分で制御することができない。

 だが、不快とはただ私たちを攻撃し破壊するだけのものではない。むしろ、何かを自分ではないと言って自分から遠ざけることは、つまり何かを嫌がるということは、自分の輪郭を明確化することではないだろうか。アキの死によって消費を滞らせてしまったデンジは、マキマの「犬」になることによって再び理想的消費者としての、何も考えずに出されたものを美味しく食べる存在に戻ろうとした。その結果、マキマに命じられるままにドアを開け、パワーの死を招いてしまう。ドアを開けてはならないと直感的に分かっていたにもかかわらず。この印象的なシークエンスは、拒否しない者、閉め出すことをしない者は、かけがえのないものを持つことができないという『チェンソーマン』の世界の原理のようなものを示しているように思う。残念ながらと言うべきか、私たちは何が好きかより、何が嫌いかで自分を語るのである。

 大切なものは拒否から始まるのだ。パワーとニャーコの出会いを思い出そう。彼女は当初、出会うすべてを殺して食べていた。ニャーコは痩せて食いで・・・がなかったために、一旦太らせることにした。だが太ったあともパワーはニャーコを食べなかった。いつの間にかニャーコは食べられないものになっていたのだ。このくだりは、闇の悪魔へのトラウマから一人で風呂に入れなくなったパワー(彼女がその恐怖をまず何よりも「口の中に何かおる」[18]と表現したことも想起しておこう)と一緒に入浴するデンジの感情を予告している。かつてはパワーの胸を揉むために命を懸けたこともあった彼の圧倒的性欲は今や萎れて、裸で抱き合っている女性がいるのに「全然エッチな感じしねえ」[19]。デンジはその理由を、自分が相手のことを深く知ってしまったからだと分析する。当初は即物的な欲求によって関係していたかもしれないが、欲求を充足しようとする過程で、デンジはパワーを、パワーはニャーコを知ってしまったことによって、食べられるはずだったものがいつの間にか食べられなくなったのだろう。

 簡単に言えば、全てを欲求の対象とする人間(魔人)にかけがえのない存在ができたということだ。だが藤本タツキは徹底している。彼はそのことをデンジにもパワーにも祝福させない。デンジはひとりごちる。「多分なんでもかんでも知りゃあいいってもんじゃねえんだ/知らなくちゃいけねえ部分と馬鹿になったほうがいい部分があるんだ」[20]チェンソーマン』の世界において全ては消化して糞にすべく差し出されている以上、大切な誰かはどうしても食べられない、吐き気を催すものでなければならない。そして大切な人を失う経験は、それまでは食べられたものを吐き出させる。だからデンジは大切な人を作ることを不愉快に思う。「そもそもアキと仲良くならなきゃ/こんな糞みたいな気分にゃあならなかった……」[21]。永遠の悪魔を倒したときの「糞した後みてえな気分」[22]ではなく「糞みたいな気分」。ついに糞は予感でもノスタルジアでもない現在形になったというわけだ。

 デンジたちのゲロは、不快という感情の持つ遠心的な運動の作り出す社会関係が、必ずしも排斥や差別といったかたちにはならないこと、そして欲望の求心力はむしろ対象への無知につながることを示しているのではないだろうか。不快が作り出すことのできる共同体(『チェンソーマン』においてはデンジ、パワー、アキの疑似家族として提示される)では、同じものがひとつにまとまるのではなく、異なるものが異なりながら共存する。もちろんそこには互いの愛があるだろうが、互いを区別する不快が愛の条件となっている。だからこそ、アキが家族になるときには、デンジとパワーが作ったものを吐き出さなければならないのだ。自分たちは一体感や同一性によってできた共同体ではなく、お互いが自分とは決定的に異なる不快な奴らであるという前提で、それでも一緒にいるのだということを確認しておく必要があった。その儀式として、アキはゲロを吐かなければならなかった。

 なるほど、不快とは対象を私から分断しようとすることに他ならない。だがそれは同時に、相手に輪郭を認めることでもあるだろう。逆に対象を自分に取り込もうとする欲求は、才華の言う「食べるという盲目」、そうするつもりであったにせよ結果的にせよ相手の否定へとつながる。ただ、才華はデンジがマキマを食べたのは「ありのままのマキマ」を拒否し「愛するイメージを守るため」[23]だったとしているが、本稿の視点からはむしろ、マキマがデンジにとって(ありのままの彼女を見た後でも)不快になりきれなかった結果に見える。こうした読みは、マキマの性格が糞であったことに直面した後のデンジの台詞「あんな目にあっておいて」「まだマキマさんのことが好きだ」[24]を文字通りに受け取るものでもある。この台詞は、作品が能動的ではない生理的な嫌悪に基づく拒否に焦点化していることを、裏側から証言しているように読める。自分の不快が自分で制御出来ないのであれば、理性的には不快がるべきだと思っている対象をどうしても嫌がることができないという事態もあり得る。食べられるはずのものが食べられないこともあれば、糞のはずなのになぜか不快にならず、食べられてしまうこともあるということだ。

 

 

 まとめよう。『チェンソーマン』には糞とゲロという、それぞれ異なる質の不快を示すモチーフが登場する。これらはともに消費=消化というさらに別のモチーフと関係する。糞は消化され終わったものであり、私たちが愛したものが辿る運命である。一方では消費文化への、食べたいものを全て食べようとするデンジへの、マンガのページを快楽とともにめくり続ける私たちへの讃歌ではあるのだが、他方でそこで消費されるもの、消費する私たちへの軽蔑を含んだ表現でもある。こうした糞の両義性に対し、ゲロはまた別の両義性をぶつける。ゲロとは消化できなかったもの、取り込みうるのに取り込めないものだ。しかしだからこそゲロは、自分とは違う存在を認め、異なる者同士が共存するための前提条件を表象する。欲望することが関係性のデフォルトであるような世界では、むしろ吐き気を催す対象こそが浮き立って見える。姫野もレゼもマキマも、デンジにとって恋愛の対象になり得た相手は、最初は大切にしようとしたとしても、ページをめくるだけで容易に切り捨て可能である(レゼのことで傷心していたデンジがマキマとの江ノ島旅行を提案された瞬間に全く気持ちを切り替えてしまったことを思い出そう)。『チェンソーマン』はそうした軽薄さを愛してもいるのだが、それだけではいられなかったのだ。

 始まったばかりの第2部は、いまのところこうした糞とゲロのテーマを踏襲しているようにみえる。戦争の悪魔の「核兵器を吐き出させてやる」[25]という言葉が何を意味するのかはまだわからないが、相変わらず吐くことが重要になる予感がする。

 

 

[1] 藤本タツキチェンソーマン』集英社、既刊11巻、2019-2021年、22話。以下、同作からの引用は話数のみを表記する。また、別の吹き出しに入っている文でもひと繋がりに読める場合は一文として引用する。その場合は吹き出しの切れ目に/を挟む。ひとつの吹き出し内における改行については無視する。

[2] 英語版単行本最終巻の発売は2022年6月7日であるが、同作の英語版は集英社のManga Plusをはじめとする各種配信サービスによって日本語版連載とほぼ変わらないペースで発表されていた。

[3]チェンソーマン』22話。

[4] VIZ Media版の訳だが、『チェンソーマン』には非公式なファントランスレーションを含めていくつかの英語版があり、全ての英語圏読者がこの訳に接したわけではないと思われる。

[5] Austin Price, "I Like Crap," The Comics Journal, Published in April 29, 2021. (

https://www.tcj.com/i-like-crap/

Accessed in July 21, 2022. ) 拙訳。

[6] 才華「【チェンソーマン 考察】食べるという盲目 :『チェンソーマン』における「イメージ」と「まなざし」」『野の百合、空の鳥』2021年7月18日公開(

https://www.zaikakotoo.com/entry/chainsawman.image.et.regard 2022年7月21日閲覧)。

[7]チェンソーマン』38話。

[8] ジャン・ボードリヤール『消費社会の神話と構造』今村仁司塚原史訳、紀伊國屋書店、1979年、265頁。

[9] Sianne Ngai, Ugly Feelings, Harvard University Press, pp. 338-342.

[10]チェンソーマン』10話。

[11]チェンソーマン』21話。

[12] 同上。

[13]チェンソーマン』51話。

[14]チェンソーマン』22話。

[15]チェンソーマン』80話。

[16] 同上。

[17]チェンソーマン』89話。

[18]チェンソーマン』71話。

[19] 同上。

[20] 同上。

[21]チェンソーマン』81話。

[22]チェンソーマン』22話。

[23] 才華、前掲記事。

[24]チェンソーマン』93話。

[25]チェンソーマン』98話。

これから「ルックバック」についておしゃべりしようと思っている人に注意してほしいこと

※以下加筆部分

 この記事は、2021年8月2日に行われた作品の「修正」および同年9月発売の単行本『ルックバック』よりも前に書かれたものであり、一番最初に公開されたバージョンに即しています。最初のバージョンは今ではアクセスが難しくなってしまいましたが、公開当時の反応の一例を残しておくことにも一定の意味があろうと思いますので、そのまま残してあります。

※加筆ここまで

 

 

 2021年7月19日に『ジャンプ+』で公開された藤本タツキの中編「ルックバック」は、公開直後から大変な反響を引き起こしている。良し悪しという意味での評価は別にして、この作品は読者に何か語らせずにはおかないというか、裏読みのようなものへの欲望を喚起せずにはいない構造がある。"Don't Look Back in Anger"をはじめとした、作品の至るところに散りばめられた「元ネタ」の数々、「バック」=過去=背中=……といったモチーフの連結、キャラクターの利き腕の変化は何を意味しているのかといったディテールに物語らせる仕組み、などなど。私自身もそうしたおしゃべりの欲求を強く感じている。
 一方で、この作品には非常にセンシティブな話題へのリファレンスが含まれており、かんたんにおしゃべりの対象にしてしまうわけにはいかない。作中に登場する殺人犯の台詞「元々オレのをパクったんだっただろ!?」は、2019年、まさに「ルックバック」が投稿された7月18日(正確には作品が公開されたのは7月19日の午前0時であり、18-19日の境目)に起こった京都アニメーション放火殺人事件の犯人の供述を想起させる。オアシスの1995年の楽曲"Don't Look Back in Anger"は、2017年にマンチェスターで起こった自爆テロの後、事件に対する黙祷のうたとして再解釈された。つまりこの作品には、少なくとも2つのテロ事件が重ね合わされている。こうしたモチーフを「元ネタ」として無邪気に消費してしまうことは許されないだろう。それに、ある視点からはこの作品がセンシティブな話題のモチーフを不用意に扱ってしまっているように見えるのも確かである。すでに作中の犯人の描写が統合失調症についての誤解を招きかねないという旨の批判がなされている。こうした批判には一定の説得力がある。少なくとも全く否定することはできない。他にも批判可能な描写はあり、新たな論点が提起されるのは時間の問題であるように思われる。

 だが、歓迎するにせよ非難するにせよ気をつけておかなければならないのは、これから見ていくように、この作品が読解に対してアイロニカルな姿勢を見せていることである。そもそも藤本タツキは、特に『ファイアパンチ』に露骨であるが、イメージを見ることと、そのイメージが何であるかということの関係性を懐疑的に見つめてきたマンガ家である。『ファイアパンチ』の主人公アグニは、死んだ妹ルナによく似た人物に対して、お前は本当は他人のふりをしているだけのルナなのではないか、と問いかける。そして、詳細は省くが、最終的にその人物は本当に「ルナ」になる。藤本タツキの作品は読者に読解というかたちで能動的な参加を促すようになっているが、同時に最終的な解答は決して与えられないようになっている。答えが出ないがゆえに読者同士のおしゃべりを無限に駆動する。その点ではSNS時代に適応した作家であると言えるかもしれないが、しかし同時にそうした読者側の「考察」に対する批評的な視点もところどころに垣間見える。要するに、あまり性格の良い作家ではない。「ルックバック」についておしゃべりする際にも、この性格の悪さを認識しておかなければ落とし穴にはまってしまう。
 こうしたことはある程度マンガを読み慣れている人からすればおそらく言われるまでもないことであろうが、残念ながら私たちが今いる世界においては、何か語ろうとする人が冷静さや留保を保つことが非常に難しくなっている。「ルックバック」にしても、これだけ話題になってしまった以上、近い将来「擁護」か「罵倒」かの踏み絵を求められるようになるのは目に見えているのである。この作品について道徳的にせよ美的にせよ価値判断を行うとするなら、何重もの留保をした上ではじめて可能になる。では、その留保とは具体的にどういうものか。この記事は筆者が整理できる範囲でまとめた、「ルックバック」に関するおしゃべりが考慮すべき話題とその注釈である。もちろん以下が全てではないし、他にも話したいことはいっぱいある。『まんが道』的なマンガ家マンガとしての側面とか、雨=涙のモチーフと放火の関係とか……。

 本当いうと、身内であまりにも「ルックバック」の話をする機会が増えたので、いちいち前提をすり合わせるのが面倒だから事前に文面にまとめておこうかと思って書いたのが本稿なのだが、誰かの役に立つかもしれないなと思い公開する。以下は私の友人との会話を通して考えられたものであるから、この記事のオリジナリティの全てが私のものではない。とはいえ書いたのは私であるから、文責は私にある。つまり褒めるときは私だけでなく友人たちも褒めて、批判するときは私だけを批判してくれということ。


この作品は藤本タツキの自伝か

 「ルックバック」は作者の自伝のように読めるモチーフが散在している。そもそもマンガ家についてのマンガであるし、二人の主人公の名前「藤野」と「京本」は、彼らが「藤本」が分裂した存在であることを暗示する。彼らが連載する劇中作「シャークキック」は、『チェンソーマン』に登場するサメのキャラクターと『ファイアパンチ』とを重ね合わせたようであり、つまり藤本タツキの発表作全般のイメージであるかのようだ。「京本」の「京」は、彼女が殺されそうになる(後述するが、殺人犯のシーンは極めて曖昧な描かれ方をされており、本当は「殺されそうになる」などと表現してはいけない)際の描写からしても京都アニメーションから取られたように見える。藤野は人物を描き、京本は背景を描く。これはつまり、藤本タツキにとって京都アニメーションが作品のバックグラウンドとして重要なものであったと言いたいのではないか。であれば「ルックバック」とは、作者が自身の人生とともに描いた、事件に対するある種の追悼である…………と、言いたくなる。

 だが、この作品に「藤本」は登場しないし、この作品が自伝的なものであるとは作者は一言も言っていない。確かにこの作品に自伝的要素を読み込まないことはできないし、読み込むなという人がいたら流石にそれは通らないだろうが、しかしそれでも「ルックバック」の自伝性はどこまでも読者側のレッテルに留まらざるを得ない。追悼としての側面についてはまた改めて触れよう。


殺人(未遂)犯とされるキャラクターは何を描いているのか

 作中で京本を襲う人物は極めて危うい描かれ方をされている。すでに言われているようにある種の精神疾患を抱えた人をステレオタイプ的に描いてしまっているように見える。しかも実在の人物へのリファレンスであるようにしか見えない。そんなキャラクターを唐突なかたちで悪役として登場させ、藤野がそれをキックで倒す、という描写を素直に喜ぶ人があったとしたら、その人は大変に不用意である。

 とはいえ、京本が殺されそうになるシーンのリアリティは極めて曖昧である。4コママンガの切れ端がドアの隙間から入り込んでからのシークエンスは、直前までの京本が殺されてしまった世界とは違う世界である。藤野の願望が投影された妄想の世界であるようにも見える。ところで、藤野は京本殺害の件についてどの程度のことを知っていたのだろうか。特に犯人についてはどうか。おそらく直接面会などはしていないだろうし、報道を通じた断片的なことしか知らないのではないか。要するに、現実における京アニ事件の犯人についての私たちの多くが抱えている認識と似たようなものではないか。作中に描かれる未遂犯の顔は、京本らと違って全体的にぼやけており、確固とした存在感を持つキャラクターというよりは抽象的な印象を与える。そうした抽象性を現実の放火犯に言及していることの証拠として読むことももちろんできる。だが同時に、藤野の想像の世界において、彼女が犯人について持っている情報の不確かさの証であるようにも見える。妄想の世界だからこそ、たまたま学校の前を通りかかって凶器を持った男を目にし、追っていってダイナミックエントリーめいたキックで倒すなどという、都合の良い行動を取ることができるのだ。とすると、作中の未遂犯の描写を単純にステレオタイプとして読むことは難しくなってしまうのではないか。犯人自体が藤野の都合の良い想像の産物である可能性を残しておくことによって、そうしたステレオタイプ的な描写の下らなさ、ナイーブさに自己言及しているようにも読めてしまう。さらに言ってしまえば、そうしたナイーブな想像とは、現実の事件の報に接した私たちの多くが抱えたものでもあったのではないか、マンガに描かれるキャラクターをすんなりと「現実」に結びつけてしまう私たち読者の振る舞いは現実の放火犯に向けられた偏見と同根でないか、という議論すら可能かもしれない。ともかく確実に言えるのは、作中で京本を殺害した人物が直接描かれることは一度もないということだ。

 自伝性の話題とも関わるが、この作品を「追悼」と呼ぶのであれば相当に慎重にならなければならない。なるほど、現実とは違うどこかの世界において「京本」を救う物語を描き、再び立ち上がって机に向かう藤野の姿は、作者なりの喪の作業と呼べるのかもしれない。だが、それにしては作中の事件の描写は、おそらく自覚的に荒唐無稽に描かれている。そもそも藤野が立ち上がったのは事件について妄想してみることによってではなく、京本の部屋の窓から剥がれた4コママンガに導かれて部屋に入っていき、彼女の生活の痕跡に触れることを通してであったのではなかったか。事件のシークエンスが終わった直後のページの藤野は、うなだれてしゃがみこんでいる。まるで「こんなものは所詮は都合の良い妄想で、こんなこと描いても仕方ないよ」とでも言っているかのようだ。京本が救われた世界が妄想ではなく別の並行世界で、その並行世界があったからこそ藤野が立ち直ることができた、という立場を採用するとしても、しゃがみこんでいる藤野のもとに4コママンガが滑り込んできたのは、事件とは関係のない風によってである。ご丁寧にも藤本タツキは、京本が自室の窓を開ける様子を描いておらず、京本が助かったからこそ窓が開いて4コマが吹き飛ばされたのだ、という解釈を退けている。

 だとすると京本救出のシークエンスは「ルックバック」という作品にとって一体何だというのか。私にもわからないのでここでは回答を差し控えるが、解釈しようとするなら最低限ここまで書いてきたような曖昧さや両義性を踏まえなければ、それは単なる読み飛ばしである。言い方を変えれば、こうした曖昧さに閉じこもっていることにこそ批判すべきものがある。事件へのシンパシーを喚起させつつ、肝心な点については回避しておくことによって、結果的には偏見を上手く利用したとも言えるのではないか。


「元ネタ」探しをしてもよいのか

 「ルックバック」には他作品へのリファレンスが大量に仕込まれている。特に話の構造は大部分において『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』だし、あまつさえ同作のソフトウェアのパッケージが作中に描かれすらしている。私たちはそうしたイースターエッグのような「元ネタ」を嬉々として探し、それが意味するところを「考察」し、Twitterなり何なりでおしゃべりを交換する。

 さて、作中には「パクリ」を糾弾する人物が登場している。もはやいちいち書かないが、彼は「元ネタ」探しをしている私たちと地続きであるように思われてならない。「元ネタ」探しと「パクリ」として読むことの違いとは何だろうか。明らかに作者が意図しているオマージュ/パロディと、たまたま似ている(ように読者には見えた)他作品との関連性とは、どう違うのか。『ファイアパンチ』に立ち戻るなら、ルナとたまたまルナに似ている人との違いとは何か。作者が、あなたの言う作品は参照していない、と言ったとしても、その人は嘘をついているのかもしれない。類似するイメージ同士が参照関係にあるかどうかということは、結局は見る側がどう扱うか、そうした扱いが世間一般で同意を得られるかどうかによって決定される。作者がインタビュー等で自身の意図を表明したとしても、それはあくまでいち判断材料に過ぎず、それを証拠として採用するかどうかも立場次第である。

 藤本タツキ自身、「元ネタ」探しにおいて作者の発言が占める地位についてアイロニカルに振る舞っているように見える。たとえば『チェンソーマン』に関するインタビューの中で、彼は登場人物の名前の「元ネタ」について説明した際、明らかにいくつかの参照先を意図的に語り落としている。「デンジ」は「天使」から来ているというが、別の場所で言及していた弐瓶勉の『アバラ』の主人公である駆動電次(くどう-でんじ)との関係も明らかではないか。「アキ」はAKという自動小銃から来ているというなら、アキの弟の名前がタイヨウであり、前作『ファイアパンチ』の登場人物サンと重なっているように見えるのはどうなのか。アキとタイヨウの兄弟は前作におけるサンとルナの関係に重なっているのではないか。つまり「アキ」とは中秋の名月のことではないのか。

 以上の疑いは全て筆者の妄想なのかもしれない。だが、そもそも「元ネタ」探しとは根本的にパラノイア(これも不用意な表現だがあえてこう書く)的な営みであり、「俺のパクリだろ」との違いは制度的なものにすぎないのではないか。

 「ルックバック」はいかにも「元ネタ」探しを誘うように作られている一方で、「元ネタ」探しを皮肉っているようにも見える。ルック・バック=背中を見る、というタイトルもそのことを示唆しているとすら言える。背中から何かを読み取る、背中で語る、とはパラノイアそのものである。何故なら背中は決して何も語らないからだ。背中は語らず、背中を見る人が勝手に好きなものを読み取るのだ。背中の後ろ側に何があるのかは見る人には分からない。平面的イメージの芸術であるマンガであればなおさらだ。背中を見せる藤野が何を思い、どんな顔をしているのかは、藤本タツキにも決して分からない。見る人は自分が見ている対象に縛られる。だから『チェンソーマン』で最も強い人物は、相手を決して見ないのである。

 

要するにどういうことか

 要するに、褒めるにしても貶すにしても、落ち着いて作品を見て欲しいのである。「ルックバック」はあらゆる要素を宙吊り状態に保っている。ただ称賛する人は作品の不適切さへの配慮を欠いていることになるし、ただ非難する人は作品が張り巡らせている留保を見落としていることになる。最終的にどのような評価をするかは各々の勝手だが、私からあなたにお願いしたいのは、「ルックバック」が手放しの評価を寄せ付けない、相互に矛盾する要素を混在させた作品であることにきちんと目を向け、対立軸を明確にしようとするような単純な語りを跳ね除けてほしいということた。SNSは慎重な姿勢を取ることを非常に難しくしているし、「ルックバック」がSNS時代に適応した作品であるというのもある意味では事実である。しかし作品が複雑であることも事実なのだ。何もかも単純化されてしまう状況を「そんなもんだよ」と受け入れることは馬鹿にだってできるし、馬鹿は勝手にしておけば良いが、一人でも馬鹿が減るのならそれはきっと良いことだ。

マンガ100

周囲でマンガを100本挙げるのが流行っているのでやってみようと思います。でも一気にやるのはしんどいので暇なときにちょっとずつ進めます。

これは嘘ですが、この流行りのきっかけには「さいきんいろんな作品集出てるけどどれもこれも団塊世代の視点で作られててムカつくよね」という会話がなかったこともないとのことです。嘘はどうでもいいですが、何らかのプロパーみたいな作品リストを挙げても仕方ないし、初めっから自分語りとして作品を列挙すればいいということなのだと思います。多分これも嘘ですが……。なので、必読とか良いマンガとかそういう冠はきっと不要なのでしょう。私はマンガを100本挙げる。それ以上でも以下でもないのです。

 

 

1. 平野耕太ヘルシング

卒論の題材にしたら優秀卒論賞をいただき、賞金として5000円もらった。その後の打ち上げで調子に乗って飲みまくってたら終電を逃し、5000円はタクシー代になった。いろいろ話したいことはあるが、この作品の狂気的な雰囲気は台詞が引用でできていることにあるのだと思う。「わたしはヘルメスの鳥……」は15世紀の錬金術に関する写本、「貴様らは震ながらではなく 藁のように死ぬのだ」は安田講堂事件の壁の落書き。微妙な文脈のズレが世界をポリリズムにしていく。文系の論文とは引用で作るものであってみれば、これを卒論の題材にした学部生の俺はなかなか悪くない。

 

2. PEACH-PITRozen Maiden

カタカナ表記の場合は厳密にはヤングジャンプ連載版のみを指す。そっちも良いのだが、バーズ連載のころの雰囲気が好きなのでアルファベット表記。ゼロ年代Rozen Maidenの時代だった。中学生の頃、詰め襟の内ポケットに蒼星石の人形を忍ばせることで自我を守っていたが、いつの間にかなくなってしまった。教室で一人で探していたら先生に見つかり、「人に見つかりたくないものを失くしてしまったんです」と言ったら一緒に探してくれた。人形は見つからなかった。

 

3. 模造クリスタル『ミッションちゃんの大冒険』

太宰治や藤村操、テオドルス・ファン・ゴッホのセリフを吐く人々。引用が多い点では『ヘルシング』と似てるのかもしれないが、こちらは物語に合うように上手く改変しており言葉の収まりが良い。初期の模造クリスタルはコラージュを多用していて、ガタガタの線とマッチして非常にかっこいいのだが、最近はかなり真面目に線を引いているようだ。研究とかに詰まると鉄格子ごしのおっさんのテンション高い顔がいつも頭に浮かぶ。「人生 それはわからん 人は何故生きているのか不可解なり」もぞクリお絵かき掲示板に出入りしてた位置原Zとか、それ以外にも阿部共実とか、つくみずとか、もぞクリの影響受けてるだろと思うマンガ家はけっこういる。その辺をまとめることのできる人間がいるとすれば黒瀬陽平だったが、消えてしまった。

 

4. Frank King, Quin Hall, Everett Lowry, Charles Lederer, Dean Cornwell & Lester J. Ambrose, "Crazy Quilt"

1914年の春から夏にかけて、シカゴ・トリビューンというアメリカの新聞に連載された合作マンガ。これを見たときの衝撃が俺のその後の研究キャリアを決定した。内容説明はめんどいのでググってください。英語がわからん人は俺の書いた論文(『マンガ研究』vol.26)を読め。見た目だけでも凄さはわかるはず。論文書いてわかったことだけど、この作品はあまりに特殊で他の研究とつなげにくい。

 

5. Frank King, "Corky"

で、上の作品の中核メンバーだったフランク・キングについて調べていくと、コイツは天才だったことが分かってくる。代表作はガソリン・アレーという新聞マンガで、たしかにこれは重要な作品なのだが、そのオマケとして1930年代に描かれていたCorkyをあえて挙げておきたい。あえるほどの知名度は日本ではないと思うけど……。たぶん作者は初期米国コミックスの画一的なコマ割り表現について徹底的に考えたのだろう。ガソリン・アレーよりも読みやすいのも挙げる理由。

 

6. 六田登『パパイヤネドコデネンネ』

完全に俺の個人的思い出に基づくチョイスであり、作品としてどうたらとかは知らん。たしか1999年くらいから『おひさま』に連載されるようになったマンガ(コマ割りがあり、吹き出しがある)で、当時俺は前後左右もわからん幼稚園児だった。情操教育とかのことを考えて親が買い与えていたのであろう『おひさま』は基本的には絵本の雑誌だったが、この作品だけ明確にマンガで、俺はこの作品にマンガのリテラシーを教えられていった。子どもが8人+猫1匹いる父子家庭で、ある日父親が入院し子どもたちが「そうなん」する話。ガキンチョ読者に言葉で説明しても仕方ないぶん、ニュアンスやエモーションが全面に出てきていた、気がする。もはや遥か昔の記憶なのでおぼろげである。太鼓マンみたいなのが出てきて入院中のパパイヤの前で太鼓を叩く話が頭に残っている。

 

7. 島本和彦逆境ナイン

なんやかんや理屈を考えても結局人のパルスに訴えるものでなければ仕方がないのである。パルスを正すのは一方的な情熱ではなく、一種の道化であることなのだとこの作品は教えてくれる。熱い道化であれ!

 

8. 松本大洋『ZERO』

これのあとにピンポンを描き始めるのってちょっとサディスティックだと思う。

 

9. 松本大洋竹光侍

すごい。

 

10. 松本大洋『ルーヴルの猫』

松本大洋は全部挙げたいくらいだけど、3つに絞った。巨大な瞳が涙の雫を海に落として音を立てるシーンの、美しい一方でここにいてはいけないと不安にさせる何か。

 

11. ゆうきまさみ機動警察パトレイバー

「やっていいことと悪いことがある!」という陳腐な台詞をこれ以上は期待できないほどに真実にした作品。オウム事件のあとにはこの台詞はさぞ切実に響いたことだろうが、当時を知らない俺には想像するしかない。


 

(一旦休憩。)



12. 市川春子『虫と歌』

大阪の天王寺の本屋で表紙買い。当時の俺えらい。「ヴァイオライト」の整っていない粉々な雰囲気が好き。人は助けようとした人を黒焦げにし、自らも粉々になってしまう。


13. 山本直樹『ありがとう』

ユリイカの仕事をもらったときに山本直樹を全部読めてなかったので既読も含めて全部ちゃんと読んだときに読んだ。Kindleで買ったらお姉ちゃんがフラッシュバックしてドット絵になる見開きのノドの余白が無視されて絵が台無しになってたので結局国会図書館でもう一度読んだ。父親なるものもまた人を助けようとして粉々にしてしまう人である。粉々になった家族は均質な粒になり、均質なニュータウン、団地、になる。読むと父親に優しくなる。


13. 月水優『園児服フランちゃんとエッチ』

たしか日本橋(大阪)の中古同人ショップで買ったのだと思う。いまや皆知っているつくみず先生のかつてのサークル名が「妹幻想自治区」であり、フランドール・スカーレットの同人誌を複数出していることも当然ながら皆知っていることである。アパートにぼってりと居るフランちゃんの存在感、電柱越しに聴こえる都市の「オオオオ……」、フランちゃんに園児服を着せてローターを突っ込んで散歩しながら真っ先にやるのが魚屋の店先で深海魚をつつくことであり、ここから『少女終末旅行』『シメジシミュレーション』までに至る驚くべき一貫性がわかるだろう。なによりこの同人誌は商業デビュー以降には描かれない現代都市の素晴らしいディテールに溢れている。しかもしっかり抜ける。


14. 竹本泉『夏に積乱雲まで』

竹本泉は何が面白いのか全然わからないけど間違いなく面白い。竹本はこれと『るぷ☆さらだ』あたりがお気に入り。間違いなくアナーキーなのに保守的と言われればそんな気もする。うじゃうじゃ。


15. 松本充代『青のマーブル』

神田の古本市で買った。表紙が地味すぎてそもそもマンガなのか小説なのかも分からずに直感的に買って、開いてみたらマンガで、しかもめちゃくちゃ面白いという幸福な体験をさせてくれた。考えるだけ考えて、仮初にすら答えを出さずに馘首するように終わる、毛羽立ったような短編の数々。「産む人の気がしれない」と吐き捨てて終わる話がずっと頭に残っている。


16. つげ義春「ゲンセンカン主人」

『ガロ』つながりで思い出した。つげは特定の書籍名を挙げる意味があんまりないので短編を挙げます。とにかくカッコいい。ひたすらカッコいい。


17. 林静一『ph4.5グッピーは死なない』

なんか自分の連想に振り回されていないか?しかもかなりありきたりな連想ではないか?まぁいい。社会批評としても読めるが、批評的な文体が持つ戦闘継続能力のようなものとマンガの形式との関係についてのメタ批評でもあると思う。トピックとトピックの間は、コマとコマの間は本当に繋がっているのか?説得されることとは説得されることを諦めることではないのか?苦痛スレスレな領域までダラダラ続けられる話は、おそらく緻密に読み進められるべきものではない。ちゃんと読むことを諦めた瞬間におそらく何かが分かる。


18. 橋本治『マンガ哲学辞典』

さっきからなんか似たような感じになってないか。やっぱりオートマティスムみたいに自分の連想に従属してしまっているようだ。次はできるだけ直前と関係ない作品を挙げるぞ。さておき、このマンガは単純に面白いだけでなく、日本のある時代においてコマ枠というものが持っていた意味を明らかにしてくれる。たぶん俺の世代は枠線を破壊することに大した意味は見いだせないのだが、その喜びは知っておいたほうが良い気がする。


19. 尾籠憲一『胎界主』

会う人会う人に勧めているのだがいかんせん長い上に序盤がけっこう厳しいし、しかも何周かして初めて分かってくるタイプの作品なのでなかなか話に付き合ってくれる人がいない。あらゆることを話したいが、特に気になるのはこの作品のソロモンとはマンガにとって何者なのかということ。『胎界主』の世界では何者か(たぶん作者が想定している一般読者というか、こっからここまでは自然な展開として受け容れられるだろうという規範意識)が因果関係の許容範囲を決めていて、作品の展開が無理矢理になると世界が歪んでしまい、歪んだ隙間から悪意に満ちた神々が侵入してくる。ソロモンは作品内に普通に設定されているキャラクターよりも遥か上位の存在で、その気になれば文字通りどんなことでも出来るのだが、神々のせいであまりに無理矢理な展開は作ることができず、全能性にストッパーをかけられている。その一方で、ソロモンが世界に干渉するたびに世界がそれをセーフと判定するかどうかてんやわんやすることによって、ご都合展開への許容度が大きくなる。ご都合展開が許されるかどうかということそれ自体がエンターテイメント化されているので、ちょっと無理矢理なことをしても自己言及的に「あぶねーギリ許されたわ……」という感じで処理できるし、しかもそれがナンセンスではないのだ。作者の都合と、読者がご都合展開に納得するかどうかということの間の折衝の空間にいるのがソロモンなのだ。これはコマ同士が繋がるとはどういうことかという問題にも関わる。繋がっていないように見えるコマはマンガではなくなる。マンガでなくなったときに『胎界主』の世界は崩壊するのだ。


20. 九井諒子ダンジョン飯

『胎界主』wikiを作ったのは九井諒子先生なんですよ。また連想ゲームかよ。もちろん連想だけで挙げてるのではない。ある時期から連発されるようになったビデオゲーム脱構築マンガのなかで、おそらくこれが最後まで残るのだろう。ほかの作品とは想定しているゲームが違うというか、普通はドラクエやFFが想定されているのに対してこちらはelonaとかdiabloな気がする。ゲームをする俺たちの中に本当にいるのは正義の勇者ではなくライオスだし、最適解だと思えば妹だろうが食う。


疲れたのでまた休憩。こんなペースでやってて本当に100本出せるの?

⑨の誘惑:東方Projectについての試論

(ごく一部の読者のために書いておくが、私は『赤の誘惑』を読んだことがない。)

 

 私は疲れると東方Projectの作中BGMをイヤホンで聴きながら周辺を散歩することがある。疲れていなくても徒歩移動の際にはイヤホンで聴きながら移動する。それをかれこれ十年以上続けているので、自分でも何か中毒的なアレにかかっているのではないかと感じるが、毎回全く同じ聴取体験をしているというわけでもなくて、しばしば新しい発見がある。

 さて、東方Project第九段である『東方花映塚』に収録された曲、「六十年目の東方裁判 ~Fate of Sixty Years」を聴きながら歩いていたある日のことである。前々からこの曲を聴くたびに、ときおり不自然に鳴る「ポッ」というような電子音を不思議に思っていた。ここに曲へのリンクを直接貼るのは憚られるので各自の方法で聴いてほしいが、イントロからドラムがリズムを刻み始めてしばらくした頃(申し訳ないが私は音楽的な語彙が全然ないので適切な指示ができない、気合で分かって欲しい)、電話をかけたときに聴こえてくるような「ポッ」という音が鳴っていないだろうか。

 一体これは何なのか。なんとなく試しに、私はこの音が鳴るタイミングに規則性があるのではないかと思い、「ポッ」が鳴ったあとに次の「ポッ」が鳴るまでの間の拍を数えてみた。するとわかったのだが、この音はきっちり九拍ごとに鳴っているのだ。

 これは一体何を意味しているのか。ひとまず私は『東方花映塚』を起動し、作曲者であるZUN(以下、東方ファンの通例として彼を「神主」と表記する)がこの曲に宛てたコメントを読んでみた。

 

四季映姫・ヤマザナドゥのテーマです。明らかにラストっぽい曲です。ラストはメロディアスな曲が多いのが東方の特徴。今回はさらに日本+再生+桜の国、というイメージを盛り込みました。力強さと儚さが同居するこの曲は、いまだ見られない最も美しい桜の国の為の曲です。全体的にお馬鹿なこのゲームも、この曲だけは強い思いで。

(『東方花映塚Phantasmagoria of Flower View.』二〇〇五年、Music Roomより)

 

 花映塚はずっと前に買って曲コメントも全部読んだはずだが、改めて見ればなんと恐ろしいことが書いてあることか。「六十年目の東方裁判」が収録されたゲームが発売されたのは、二〇〇五年八月の夏のコミックマーケット(夏コミ)である。夏コミは例年、いわゆる盆の時期に開催される。それは言い換えれば日本の終戦記念日と重なっている。この年は終戦六十周年であった。終戦からしばらく経った一九四六年、日本の戦争犯罪者を裁くために行われた極東国際軍事裁判は、「東京裁判」という別名でも知られる。そんなタイミングで神主は「六十年目の東方裁判」という名前の曲を発表し、「いまだ見られない最も美しい桜の国のための曲です。」というコメントを添えていたのだ。

 彼の思想信条はともかく、これらのテクストは、東方Projectというコンテンツそれ自体を戦後日本のナショナリズムと結びつけてしまっている。なにせ、わざわざ「東方」というコンテンツに自己言及するような語句を用いているのだ。現実の東京裁判が一九四六年五月三日から開廷された(極東国際軍事裁判所条例が制定されたのは同年一月一六日)ことを鑑みるなら、二〇〇五年の夏コミの時点では東京裁判から五九年三ヶ月が経過していることになり、「六十年後」や「六十周年」ではなく「六十年目」とされた理由もこれで分かる。同じ表記から読み取れるのは、「東方裁判」は六十年前から当時に至るまでずっと続いており、また未だに進行中であるということだ。

(なお蛇足だが、二〇二〇年八月現在、ニコニコ大百科やpixiv大百科でこの曲に関する記事を読むと、いちおう戦後云々という事情についても触れられているのだが、ともに東京裁判との関係性を「~という説もある。」などと遠ざけるような書き方がなされている。pixivの方では唐突に現実の東京裁判の不公平性についての記述が始まる。)

 一方、「六十年目」には作中の物語における意味も用意されている。物語の舞台である幻想郷は、外界(これは現実の私達の生きている世界とよく似ているとされる)からの干渉を防ぐために結界で覆われているのだが、この結界は六十年周期で不安定になるとされる。それは、六十年周期で結界の外側の世界に幽霊が増えるからなのだという。先の大戦のことを考えるとなかなか皮肉の効いた話ではあるが(しかもゲーム内では戦争によって発生した幽霊であることが示唆されている。霊夢エンディング参照)、それは置いておこう。なぜ周期は六十年なのか。『東方紫香花』に収録されたZUNによる小説「六十年ぶりに紫に香る花」で語られているところによれば、自然というものは、日と月と星の「三精」、春夏秋冬の「四季」、そして火・水・木・金・土の「五行」から成っており、それら三系統が年ごとに順番に回っていくことでバランスが保たれている。それらをかけ合わせた数である六十とは、自然が一巡する周期なのだ。

 こうした作中設定を参照しなかったとしても、日本では六十年といえば「還暦」すなわち十干十二支が一巡する周期でもある。戦後六十周年とは、いわば終戦の還暦であり、太平洋戦争にある種のリセットが起こるということでもある。作中の設定が現実の状況と重ね合わされているのは明らかであり、先に引用した楽曲コメントで言われていた「再生」もまた、六十年周期で起こるに違いない。「六十年ぶりに紫に香る花」では以下のように言われている。

 

「今年は、日と春と土の組み合わせの年なのよ。それは六十年に一度しかやってこない。そしてそれが意味する所は、あらゆる物の再生」

(ZUN「六十年ぶりに紫に香る花」『東方紫香花 ~Seasonal Dream Vision』虎の穴、二〇〇五年、一七七頁。)

 

 さて、最初に私が聴き取った「九」という数字は、ここまで出てきていない。六十は多くの約数を持つ数字だが、そのうち一桁のものは一から六までである。「六十年目の東方裁判」に周期的に現れていた九の正体は結局わかっていない。まさか『花映塚』が東方の九作目であるからという、ただそれだけのことでもあるまい。

 考えているうちに思い出したのだが、六十から弾かれた七~九について言及した東方Projectのテクストが存在する。『東方香霖堂』第十九話「龍の写真機」および、第二十六話「八雲立つ夜」である。関連する箇所を抜粋してみよう。

 

「三稜鏡は、中に何かが入っているわけではない。この三角形と言う所が重要なんだ」

 三という数字は、完全と調和を意味する。三脚は平らではない場所でも安定して立つが、これが脚が増えて四脚以上になっても、当然二脚以下に成ってもぐらついてしまう。蛇と蛙と蛞蝓の様に、三すくみならお互い牽制し合い喧嘩が始まらないが、二人や四人以上だとすぐに喧嘩が始まってしまうだろう。

(…)

「虹とは、龍の通った跡だという事は言うまでも無い。だから、三稜鏡に何か――この場合は光を通すと、虹が作り出される訳だ」

(…)

 龍は、その世界に不調和を持ち込み、その不調和から森羅万象を生む様に世界を変えた。その完全の『三』に足された虹の『七』色によって、世界は『十の力』で構成される様になったのだ。

(ZUN『東方香霖堂 ~Curiosities of Lotus Asia.』アスキー・メディアワークス、二〇一〇年、一三七-一三八頁。)

 

「実は、八という数字は夜と密接な関係が有るんだ。八も夜も「や」と読むだろう?」

(…)

「英語の『エイト』と『ナイト』、ラテン語の『オクト』と『ノクト』、ドイツ語の『アハト』と『ナハト』……他にも世界の言語の多くが八と夜が似ているんだ。これでも偶然かい?」

(…)

「結論から言うと、数が多い『や』に八の字を当てたのは、八が大きい数だったからに過ぎない」

「八が大きい数?もっと大きい数なら幾らでもあるぜ?」

「いや、一桁の数字で考えると九が最大だが、八も九に次いで大きな数字だ。でも九は久、つまり永久を意味し、昔から無限を表していた。漠然と多いという状態は有限だから、感覚的に無限よりは少ない事が判る。だから、九の一つ下の八の字を『や』に当てた、といった感じじゃないかな」

「ふーん。元々八は『や』とは読まなかったと言うのね? それが夜と何の関係が?」

「八ではなく夜が『や』だったんだよ。非常に多いという言葉に夜を当てたんだ」

(同上、一九五-一九六頁。)

 

  世界に完全さを付与する七も含めて、一から八までは有限の数であり、周期によって秩序を作り出すが、九は無限であり、秩序を逸脱する。同時に興味深いのは、九は八の次、すなわち夜が明けた後にやってくる朝であるということだ。それはもちろん、再生の謂であるが、しかし九の再生は、有限の数の乗算から現れる六〇年周期でやってくるものとは異なる、無限の世界への跳躍を必要とする全く異質なものであり、再生というよりも新生と言うべきものであろう。

(ちなみに、第二十六話「八雲立つ夜」の末尾には「数字を、ただの個数を表すだけの言葉だと思ったら大間違いである。そう思って周りの物を見てみるといい。巧妙に隠された秘密が見えてくるかも知れない」(一九七頁)という記述がある。私はこれを神主からのメッセージと見て、今回の記事を書くモチベーションを得た。)

 九と再生の関係については、二〇〇七年の書籍『東方求聞史紀』にヒントが読み取れる。この本は稗田阿求というキャラクターによって編纂されたという設定だ。阿求は、『古事記』の編纂者とされる稗田阿礼が、その記憶力を世に役立てるべく「転生の術」を繰り返し、死後何度も蘇っていった先の九代目とされる。その本の「あとがき」で神主はこう書いている。

 

で、今回、阿求が九代目なのが何故なのかと考えると、独白は面白い置き換えが出来ると思いますが……ま、それは別の話。

(ZUN『東方求聞史紀一迅社、二〇〇七年、一六五頁。)

 

「独白」とは、同書の後の方に収められた阿求の手による文章であるが、そこで彼女は「転生の術」を九回目である今回で止めてしまう可能性に触れている(一五三頁)。八代目まで繰り返されてきた転生は、九代目にあって疑問視されるようになっている。阿求は転生を打ち切るか、八代目までとは全く異なるかたちで生まれ変わるか、あるいは永久の九として不死となるのかもしれない。いずれにせよ、もはや幻想郷は、言ってしまえば日本は、今のままの繰り返しではいられないのである。

 「六十年目の東方裁判」には、曲名に掲げられた六十という有限数の周期を裏切る、九の周期が埋め込まれている。阿求に照らして言えば、本当に求められるべきは六十の転生ではなく、有限から無限へと飛躍する九への新生であり、八=夜からの夜明けであろう。これはしかし、絶望である。そもそも無限とは絶対に到達できないものだ。先に書いたように「東方裁判」は、少なくとも二〇〇五年八月の時点では進行中であり、終わっていない。曲のコメントにあるように、「最も美しい桜の国」は「いまだ見られない」。日本は有限性の範囲内では再生するが、新生すなわち「東方裁判」の結審は無限に先送りにされ、夜は来れども決して明けることはなく、我々は(おそらくは今現在も)永続敗戦のただ中にいるのだ。

 

 そして最後に、九といえば、東方Projectのファンにとってはお馴染みの数字でもある。それは他でもない、「六十年目の東方裁判」が収録されたゲーム『東方花映塚』のマニュアルの「画面説明」に端を発するミームである。これはオンラインでも参照できる。

 

omake.thwiki.cc


 

 いまやこれを単なるギャグとして看過することはできないだろう。九は全てを救う数字だが、しかしバカの数字でもある。「阿求=阿Q」もまた愚か者の名前である。神主は「最も美しい桜の国」を夢見つつ、それがバカなものであることをも暗示している。

 こうしたコンテンツが、日本のみならず、太平洋戦争において日本に侵略された国も含めた世界各国で消費されているのだ。