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コロンバス旅行記23:コレポン編

3週間もアメリカにいるのだから多少英語が上達するかと思ったがむしろ悪化している気がする。中途半端に応答の形を知ってしまうと、「この場面はアレを言うべきタイミングなのか?」という問いが頭に浮かぶことで口が止まってしまう。日常会話とは考えながら話すような速度を前提としていない。俺がうんうん考えている間に相手は俺の言いたいことを忖度し先回りして返事してくれる。それが実際俺の聞きたいことや話したいことだったかと関係なく、それに相槌を打つのが楽な上に相手にこれ以上時間を取らせるのが嫌なのでyeah yeah で処理してしまう。その会話が終わって数分経つとようやく自分がどう言うべきだったのか分かる。

コロンバスにしか来たことないんだからこういう主語を使っていいのか自信ないが、アメリカ人は日本人よりもずっとコールアンドレスポンスをしっかりやる。レジで会計したときやバスを降りるとき、重いドアを支えてもらったとき、そういったときにThank youやHave a good oneを必ず言うし、なんならちょっとジョークを言ったりする。肩がぶつかったり道ですれ違うのに失敗したりしたら必ず謝る。一度だけ謝らない奴を目にしたが、しばらく追いかけられていた。ずっと日本にいた俺はそういう礼儀のタイミングと速度みたいなものにまだついていけず、振り回されてパニックになってしまう。こうした環境と比較する限りで言えば、良くも悪くも日本はあまりコミュニケーションをしなくても良い社会なのだろう。語彙や文法ではなく身体に刻まれた入力の反応のセットが問題なのだと思う。

日曜付録を1904年の途中くらいまで読む。ついにスウィナートンの代表作「リトル・ジミー」が始まる。連載第一回から飛ばしまくっている。スタンダードになっていたグリッド状のフォーマットを無視し、列によってコマ数やサイズを変えたり、ひとつのフレームの中に複数の異なる瞬間を表象する絵を詰め込んだり、"meanwhile"を使ったりと、ほとんど20年代の作品に見える。別の作品でもひとコマだけショットサイズを変えて顔のアップを描いてみたりと、タイムスリップしてきたかのような先進性だ。

一体どこからこんな発想を獲得したのか。ハースト紙の中でスウィナートンだけ表現が先に行き過ぎていて、流石にどこかに元ネタや発想元があるだろうと思うのだが、今回の滞在ではそこまで調べられそうにない。アメリカの先生方もこうしたことはご存知のはずだが、重点的に取り上げられているのを見たことがない。まだ途中までしか読んでいないThe Goat Gettersという本はスウィナートンのキャリアを丹念に追おうとしているようだが、この本はとにかく読みづらくてこっちのやる気を削いでくる。