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『チェンソーマン』の糞とゲロ

はじめに

 以下の文章は、藤本タツキのマンガ『チェンソーマン』に出てくる糞とゲロについて色々考えたものだ。

 この文章はもともとは『チェンソーマン』第1部の内容に基づいて書いたもので、11月の文フリで出すマンガ批評同人誌に載せる予定だった。しかし書いている最中は『チェンソーマン』第2部が7月から連載再開することを何故かすっかり失念していた。7~11月の展開を知らない状態で書いた『チェンソーマン』論を出してしまうのはちょっとマズい。なので、元々の文章に加筆訂正してブログ公開することにした。場合によっては、再修正版を同人誌に改めて収録するかもしれない。

 もうちょっと同人誌の話をさせてもらうと、11月に出す同人誌は「不快」をテーマに設定した。簡単に言えば、最近はあらゆる場所で楽しむことが至上命題とされていて、不快なものは端的に遠ざけるべきということになっている気がするんだけど、本当は不快感とか嫌なものについてこそちゃんと考えなきゃいけないんじゃないの、というような違和感について、マンガと一緒に考えていこうという感じだ。もちろん、嫌なものを積極的に受け入れろみたいなお説教を垂れるつもりはない。嫌なものは遠ざければいいのだが、遠ざけ方にもいろいろある。嫌いなものを完全に抹消するのは難しいし、私たちは多かれ少なかれ、不快なものと隣り合って生きていかなければならない(これを書いている最中にも、コップに入れたオレンジジュースに小バエがダイブしてきた)。だから、何かを嫌うということについて、あくまでそれが嫌いだということは保ったままで冷静に考えるための語彙や道具を整理しておきたいのだ。「実はお前はそれが好きなのだ」とか「不快だけど取るに足らないから無視すればいい」みたいに、不快を割り引いてしまう話し方ではなく……。

 『チェンソーマン』は不快マンガである。不快マンガではない。奇抜なユーモア、完璧な画面構成、圧倒的なスピード感によって私たち読者に快感を与え続けてくれるこのマンガは、しかし連載を通じて不快感を中心的なテーマとしてきたのである。主人公であるデンジは常に美味しいもの、気持ちいいもの、楽しいものを求めている。しかし、というか、だからこそ不快なものが重要となる。繰り返し登場する2つの不快なモチーフ、「糞」と「ゲロ」に注目することで、『チェンソーマン』という気持ちいい作品が、不快なものについてどのように捉えているのかを探ってみたい。

 

「糞好き」[1]

 『チェンソーマン』第一部が『少年ジャンプ』本誌上で完結してから約3ヶ月後、コミックスに関する英語圏のWEBジャーナル『コミック・ジャーナル』に同作についての論考が発表された[2]。筆者オースティン・プライスが論考につけたタイトルは"I Like Crap"だ。このタイトルを翻訳するのは見た目ほど簡単ではない。これは『チェンソーマン』22話における主人公デンジのセリフから取られている。デンジが職場の先輩である姫野と朝食を取りながら会話する場面だ。日本語版では以下のようなセリフが連なっている。

 

姫野:…そういやデンジ君もマキマさん好きなの?

デンジ:超好き

姫野:…例えばマキマさんの性格が糞でも好き…?

デンジ:糞好き[3]

 

 "I Like Crap"は最後の「糞好き」の英訳としてある。アマンダ・ハレーによるこの訳[4]は、日本語を母語とする者にとってはすんなりとは受け入れられないだろうが、興味深い読みを提示している。日本語版においてデンジが言いたかったのは「糞(みたいに)好き」ということで、この場合の「糞」は程度の激しさを意味する言葉として副詞的に用いられている。英語版の「糞」(Crap)は、動詞「好き」(Like)の目的語であり、「糞(が)好き」ということだ。日本語版を基本とするならこの解釈にはやや首をひねるところもあるが、とりあえず英語版をそれ自体として読もう。その場合、英語版のデンジが言いたいのは、マキマの性格が糞であったとしても、そもそも糞が好きだからマキマも好きだ、ということではないだろうか。

 この解釈をいったん通過すると、日本語版の台詞もまたそのように読むことが可能であることに気づく。プライスは『チェンソーマン』全体をつらぬく糞(的なもの)への愛を指摘している。この作品はあらゆるものをあまりにも刹那的に消費・消化する。他作品・他ジャンルへの大量のリファレンスがしれっと挟まれ、大した意味も与えられないままに通過される。魅力的なキャラクターたちは次々と感慨なく殺される。主人公のデンジはそうした健啖を象徴する存在だ。彼はあらゆるものに飢えていて、だからあらゆる誘惑に簡単に屈する。何かを我慢しようとしても長続きしないし、落ち込むことがあっても別の良いことがあれば一瞬で忘れてしまう。言うなれば彼は理想的な消費者なのだ。言い換えれば、彼にはかけがえのないものは何もないということだ。それは彼自身についても当てはまる。第1話の時点で彼は既に腎臓、右目、そして金玉まで売り払ってしまっている。『チェンソーマン』の世界には絶対的に大切なものは存在せず、全ては食われ、糞になって下水に流される定めにある。

 だがそれは世界の否定ではない。プライスは第76話、銃の悪魔に殺された犠牲者の名前が画面を覆い尽くすシーンに「藤本が(…)少なくとも私たちの最悪の悪魔どもとは手を組んでいない」証拠を見て取る。「民間人の犠牲者の名前を次々に読んでいくことに(…)退屈と疎外を感じるとすれば、それはまさしく、名前を読むことが退屈で疎外された経験だからだ。それは一種の記録であり、全ては廃棄されうるものだという『チェンソーマン』の世界をかたちづくっているエートスに逆行する記憶の儀式である。それは、世界から何の意味も持ち得ないといわれた諸々の名前に意味を貸し与えるための行為なのだ。」デンジは、あるいはこの作品はあっけなく消費され終わるもの、糞として流されるものを、まさにそうであることにおいて肯定しようとしている。それはデンジに借金を残して死んだ「糞親父」(第1話)への、何も心に残さない「糞映画」(第93話)への、消化されたマキマへの愛着である[5]

 こうした「糞好き」を、単一の作品を超えてメディウムとしてのマンガのテーマとして考えることもできるだろう。マンガとは、イメージをコマとして次々と消費していくメディアである。私たちはマンガの読者として、与えられたイメージをバクバクと飲み込んでは視界の外へと排泄していく。全てのイメージは他のイメージとの関係において存在し、作者がどれだけ時間をかけて描いた絵であっても、次のコマに向けて読み終わられる定めにあるし、またそうであることによってのみ作品の一部である。もし作品からひとつのコマを取り出してかけがえのないものとしてしまったら、つまりコマを作品を構成するネットワークから独立させてしまったら、もうその作品は読めなくなってしまうだろう。だから『チェンソーマン』の結末において、デンジはシリーズの黒幕的存在を食べて消化するのだ。デンジにとって愛することとは食べることによって対象との距離をゼロにし見えなくすることだったという才華の指摘[6]は、優れた作品論であるとともに、メディウムとしてのマンガの運命を語ったものとしても読める。

 ただ、私たちがいま問題にしているのは食べることよりも糞をひって流すことだから、イメージの私との距離がゼロになることよりも、見えないほど遠くなる・・・・・・・・・・ことについて考えるべきだろう。マンガを読む時、私が直前まで視線を向けていたコマは、客観的には読み終わられた後も視線のすぐ近くにあり、眼との距離はいま読んでいるコマとほとんど変わらない。だが主観的には事情が異なる。私たちは読み終わられたコマ・・・・・・・・・を見ることは決してない。さっきまで見ていたコマに視線を戻してしまうと、それはただちにいま読んでいるコマ・・・・・・・・・になり、物語の世界における現在になってしまうからだ。糞はすぐそこにあるはずなのに、私たちは糞をそれ自体として見ることはない。流され終わった糞へのノスタルジアだけが周辺視野に感じられる。

 実際、『チェンソーマン』は登場人物の台詞として驚くべき数の「糞」を記しているが、イメージとして目に見えるかたちで(直接的にも比喩的にも)「糞」を読者に提示したことは一度もない。人間が潰され、バラバラにされ、消費されているまさにその瞬間を描き続ける。だが死者に長々とかかずらうことはしないし、ましてや死者のために復讐するなどもってのほかである。どうしても廃棄物に思いをはせたいなら、なるべくふざけた、復讐なんて下らないということを確認するようなかたちで、たとえば金玉を蹴り上げる「大会」[7]を開くという風にして行わなければならない。

 要するに、プライスの批評を引き継ぎながら本稿が「糞」と呼んできたものは、直接的には不快な対象ではない。おそらく『チェンソーマン』において「糞」とは、厳密にはこれから糞になるもの・・・・・・・・・・であり、予告と諦観が入り混じった態度の表現なのだろう。にもかかわらず、「糞」は不快と無関係ではない。

 デンジは全てを潜在的に糞であるとした上で肯定するのだが、言葉を換えれば、そうした世界観は全てを予め糞であると定義することで、真に受けることを拒否している。「糞好き」のデンジは地面に落ちた食べ物であろうが極悪人であろうが根本的には拒否しない。何であれどうせ糞になるのだから。それはある意味では寛容の究極的な形態である。全てを消費対象としてかけがえのなさを否定した上で成り立つ寛容  ジャン・ボードリヤールはそうした寛容を、彼が「「道徳的」寛容」と呼ぶものと区別している。「「道徳的」寛容」の詳細は曖昧だが、それは消費社会における寛容とは異なり、システムのうちに包摂できないものを許容することを意味しているようだ。それに対し、消費社会の寛容は「イデオロギー、世論、美徳と悪徳などが極端にいえばもはや交換と消費の用具にすぎず、あらゆる矛盾したことがらが記号の組み合わせのなかで等価物となることを意味しているだけのことだ」。それは表面的には寛容の精神のように見えるが、消費社会の中で生きる人は意識するとせざるとに関わらず全てを等閑視するようになるというだけのことで、精神的なものとは関係がない、ということは道徳とも関係がない。「寛容とはもはや心理的特性でも美徳でもなく、システムそのもののひとつの様態」なのである[8]

 ところで、何かを糞呼ばわりすることは、軽蔑の身振りでもある。シアン・ンガイは寛容と軽蔑とがいくつかの点で類似していることを指摘している。その論理はボードリヤール寛容もどき・・・・・の議論と似ている。私たちが何かに寛容になるのは、それが不快であることを前提としつつ、実質的には無害であると言うときである。あるいは寛容とは、対象に無能の烙印を押すことであり、わざわざ拒否する必要のないもの、変革を引き起こす可能性がないもの・・・・・・・・・・・・・・・・へと加工するパフォーマンスである。こうした弱体化において寛容は軽蔑とよく似た役割を果たす[9]。ンガイは、ボードリヤールが消費社会のシステムの効果として捉えたものについて、情動論的な分析を加えたと言えるかもしれない。彼女もまた、こうした軽蔑的な寛容は本来の寛容とは別物だとしている。対象を弱体化せず、それが自分に決定的な打撃を加えてしまう可能性を保った上で、それでも受け入れるという苦渋の決断だけが、真の意味で寛容と呼べるのだ。

 「糞好き」の世界では欲求の強度だけが問題となり、すごく欲しいかあんまり欲しくない(遠ざけたいということではなく、わざわざ行動するほど欲求が強くない)か、という程度問題だけがあって、何が欲しいのかはあまり問題ではない。デンジが誰かを守るのは正義感ではなく、胸を揉みたいとかセックスしたいとかの欲求のためであり、それよりも深い理由がないからこそ死ぬまで戦うことができる。欲求を超えた大切なものの存在を主張する者に対しては「夢バトル」[10]を仕掛け、何が欲しいかという対象の問題をどのくらい欲しいかという強度の問題へとスライドさせようとする。「夢バトル」では、他でもないあれ・・が欲しい、という選択や決断は笑い飛ばされてしまう。それはどんなものであろうが欲求の対象として平等に扱うという意味では寛容であり、一切のかけがえのなさを否定するという意味では軽蔑である。

 全てを潜在的=実質的ヴァーチュアルにゴミと見る世界には、許容できないという意味で不快なものはない。だが、「糞好き」の世界観は同時に、もしゴミでないもの、かけがえのないものに出会うことがあったとすれば  流されない糞を目のあたりにすることがあれば  それは不快な体験に違いないことを予感してもいるのだ。

 

「ゲロだ!!」[11]

 『チェンソーマン』において「糞」は目に見える対象としては登場しないので、私たちを不快にすることはない。では直接的に描かれている不快とは何か。ゲロである。ゲロとは消化できなかったもののことであり、「糞」への抵抗としてある。加えて、直接描かれるせいで私たち読者を端的に不快にすることができる。

 消化できなかった・・・・・・ものは、消化できない・・・・ものではない。酔っ払った姫野に口移しで飲み込まされたゲロがデンジにとって不快なのは、彼に「口に入れた栄養になるモノを飲み込むクセ」[12]があるからだ。第1話で彼は高利貸しにタバコを飲み込まされそうになるが、飲み込むフリをするだけだった。タバコも口に入れればもちろん不快だが、その理由はゲロとは異なる。タバコは栄養にはならない。私たちはすごく頑張れば他人のゲロを飲み込んで栄養にすることができるのかもしれないが、どうしても無理である。『チェンソーマン』においてゲロが象徴するのは、消費すべく差し出されているにもかかわらず消費できないという不快なのだ。

 デンジは食べられるものが食べられなくなること、食事が滞ることへの不安をたびたび吐露している。戦いのあと、なぜ自分を助けたのかと問うレゼに対し、デンジは現在の自分の消費者としての生活を守りたいのだと応える。どんなに酷い目にあっても「次の日ウマいモン食えりゃそれで帳消しにできる」が、「ここでレゼを捕まえて公安に引き渡したら/なんか…魚の骨がノドに突っかかる気がする」[13]。レゼを連行したくないという気持ちは、食事を飲み込むことの失敗、および今後の食事への支障という比喩で語られる。姫野にゲロを飲まされたときにも、今後「キスのたびにゲロの味を思い出すのかな」[14]と心配する。「糞好き」である彼にとっては、将来的に差し出されるものを消費=消化できなくなることは恐怖なのだ。

 その恐怖は、第80話で「ウマいモンを食いまくっ」[15]ても帳消しにできなかったアキの運命において現実のものとなってしまう。アキを自らの手で殺してしまったあと、デンジは「何見ても何考えても糞にな」[16]ってしまい、買い食いしたアイスもその場で吐いてしまう。「糞好き」の意味はここで決定的に変化することとなる。

 これは、食べられるものをあえて食べないという我慢あるいは留保とも異なっている。『チェンソーマン』では、あえて消費をしないというかたちで発揮される能動性は信じられていない。第2部冒頭のあの露悪的なシークエンス、クラスのみんなで飼った鶏の悪魔をあえて食べないという情操教育への白けたまなざし[17]は、そうした能動性への嫌悪が作品を貫いていることを示唆している。デンジが物を食べられないとすれば、それは能動性以前の生理的な嫌悪によってでしかありえない。ゲロが(食べられるのに)食べられない理由は論理的に裏づけられない。言い換えれば、生理的な水準では、私たちは自分が何を嫌がるのかを自分で制御することができない。

 だが、不快とはただ私たちを攻撃し破壊するだけのものではない。むしろ、何かを自分ではないと言って自分から遠ざけることは、つまり何かを嫌がるということは、自分の輪郭を明確化することではないだろうか。アキの死によって消費を滞らせてしまったデンジは、マキマの「犬」になることによって再び理想的消費者としての、何も考えずに出されたものを美味しく食べる存在に戻ろうとした。その結果、マキマに命じられるままにドアを開け、パワーの死を招いてしまう。ドアを開けてはならないと直感的に分かっていたにもかかわらず。この印象的なシークエンスは、拒否しない者、閉め出すことをしない者は、かけがえのないものを持つことができないという『チェンソーマン』の世界の原理のようなものを示しているように思う。残念ながらと言うべきか、私たちは何が好きかより、何が嫌いかで自分を語るのである。

 大切なものは拒否から始まるのだ。パワーとニャーコの出会いを思い出そう。彼女は当初、出会うすべてを殺して食べていた。ニャーコは痩せて食いで・・・がなかったために、一旦太らせることにした。だが太ったあともパワーはニャーコを食べなかった。いつの間にかニャーコは食べられないものになっていたのだ。このくだりは、闇の悪魔へのトラウマから一人で風呂に入れなくなったパワー(彼女がその恐怖をまず何よりも「口の中に何かおる」[18]と表現したことも想起しておこう)と一緒に入浴するデンジの感情を予告している。かつてはパワーの胸を揉むために命を懸けたこともあった彼の圧倒的性欲は今や萎れて、裸で抱き合っている女性がいるのに「全然エッチな感じしねえ」[19]。デンジはその理由を、自分が相手のことを深く知ってしまったからだと分析する。当初は即物的な欲求によって関係していたかもしれないが、欲求を充足しようとする過程で、デンジはパワーを、パワーはニャーコを知ってしまったことによって、食べられるはずだったものがいつの間にか食べられなくなったのだろう。

 簡単に言えば、全てを欲求の対象とする人間(魔人)にかけがえのない存在ができたということだ。だが藤本タツキは徹底している。彼はそのことをデンジにもパワーにも祝福させない。デンジはひとりごちる。「多分なんでもかんでも知りゃあいいってもんじゃねえんだ/知らなくちゃいけねえ部分と馬鹿になったほうがいい部分があるんだ」[20]チェンソーマン』の世界において全ては消化して糞にすべく差し出されている以上、大切な誰かはどうしても食べられない、吐き気を催すものでなければならない。そして大切な人を失う経験は、それまでは食べられたものを吐き出させる。だからデンジは大切な人を作ることを不愉快に思う。「そもそもアキと仲良くならなきゃ/こんな糞みたいな気分にゃあならなかった……」[21]。永遠の悪魔を倒したときの「糞した後みてえな気分」[22]ではなく「糞みたいな気分」。ついに糞は予感でもノスタルジアでもない現在形になったというわけだ。

 デンジたちのゲロは、不快という感情の持つ遠心的な運動の作り出す社会関係が、必ずしも排斥や差別といったかたちにはならないこと、そして欲望の求心力はむしろ対象への無知につながることを示しているのではないだろうか。不快が作り出すことのできる共同体(『チェンソーマン』においてはデンジ、パワー、アキの疑似家族として提示される)では、同じものがひとつにまとまるのではなく、異なるものが異なりながら共存する。もちろんそこには互いの愛があるだろうが、互いを区別する不快が愛の条件となっている。だからこそ、アキが家族になるときには、デンジとパワーが作ったものを吐き出さなければならないのだ。自分たちは一体感や同一性によってできた共同体ではなく、お互いが自分とは決定的に異なる不快な奴らであるという前提で、それでも一緒にいるのだということを確認しておく必要があった。その儀式として、アキはゲロを吐かなければならなかった。

 なるほど、不快とは対象を私から分断しようとすることに他ならない。だがそれは同時に、相手に輪郭を認めることでもあるだろう。逆に対象を自分に取り込もうとする欲求は、才華の言う「食べるという盲目」、そうするつもりであったにせよ結果的にせよ相手の否定へとつながる。ただ、才華はデンジがマキマを食べたのは「ありのままのマキマ」を拒否し「愛するイメージを守るため」[23]だったとしているが、本稿の視点からはむしろ、マキマがデンジにとって(ありのままの彼女を見た後でも)不快になりきれなかった結果に見える。こうした読みは、マキマの性格が糞であったことに直面した後のデンジの台詞「あんな目にあっておいて」「まだマキマさんのことが好きだ」[24]を文字通りに受け取るものでもある。この台詞は、作品が能動的ではない生理的な嫌悪に基づく拒否に焦点化していることを、裏側から証言しているように読める。自分の不快が自分で制御出来ないのであれば、理性的には不快がるべきだと思っている対象をどうしても嫌がることができないという事態もあり得る。食べられるはずのものが食べられないこともあれば、糞のはずなのになぜか不快にならず、食べられてしまうこともあるということだ。

 

 

 まとめよう。『チェンソーマン』には糞とゲロという、それぞれ異なる質の不快を示すモチーフが登場する。これらはともに消費=消化というさらに別のモチーフと関係する。糞は消化され終わったものであり、私たちが愛したものが辿る運命である。一方では消費文化への、食べたいものを全て食べようとするデンジへの、マンガのページを快楽とともにめくり続ける私たちへの讃歌ではあるのだが、他方でそこで消費されるもの、消費する私たちへの軽蔑を含んだ表現でもある。こうした糞の両義性に対し、ゲロはまた別の両義性をぶつける。ゲロとは消化できなかったもの、取り込みうるのに取り込めないものだ。しかしだからこそゲロは、自分とは違う存在を認め、異なる者同士が共存するための前提条件を表象する。欲望することが関係性のデフォルトであるような世界では、むしろ吐き気を催す対象こそが浮き立って見える。姫野もレゼもマキマも、デンジにとって恋愛の対象になり得た相手は、最初は大切にしようとしたとしても、ページをめくるだけで容易に切り捨て可能である(レゼのことで傷心していたデンジがマキマとの江ノ島旅行を提案された瞬間に全く気持ちを切り替えてしまったことを思い出そう)。『チェンソーマン』はそうした軽薄さを愛してもいるのだが、それだけではいられなかったのだ。

 始まったばかりの第2部は、いまのところこうした糞とゲロのテーマを踏襲しているようにみえる。戦争の悪魔の「核兵器を吐き出させてやる」[25]という言葉が何を意味するのかはまだわからないが、相変わらず吐くことが重要になる予感がする。

 

 

[1] 藤本タツキチェンソーマン』集英社、既刊11巻、2019-2021年、22話。以下、同作からの引用は話数のみを表記する。また、別の吹き出しに入っている文でもひと繋がりに読める場合は一文として引用する。その場合は吹き出しの切れ目に/を挟む。ひとつの吹き出し内における改行については無視する。

[2] 英語版単行本最終巻の発売は2022年6月7日であるが、同作の英語版は集英社のManga Plusをはじめとする各種配信サービスによって日本語版連載とほぼ変わらないペースで発表されていた。

[3]チェンソーマン』22話。

[4] VIZ Media版の訳だが、『チェンソーマン』には非公式なファントランスレーションを含めていくつかの英語版があり、全ての英語圏読者がこの訳に接したわけではないと思われる。

[5] Austin Price, "I Like Crap," The Comics Journal, Published in April 29, 2021. (

https://www.tcj.com/i-like-crap/

Accessed in July 21, 2022. ) 拙訳。

[6] 才華「【チェンソーマン 考察】食べるという盲目 :『チェンソーマン』における「イメージ」と「まなざし」」『野の百合、空の鳥』2021年7月18日公開(

https://www.zaikakotoo.com/entry/chainsawman.image.et.regard 2022年7月21日閲覧)。

[7]チェンソーマン』38話。

[8] ジャン・ボードリヤール『消費社会の神話と構造』今村仁司塚原史訳、紀伊國屋書店、1979年、265頁。

[9] Sianne Ngai, Ugly Feelings, Harvard University Press, pp. 338-342.

[10]チェンソーマン』10話。

[11]チェンソーマン』21話。

[12] 同上。

[13]チェンソーマン』51話。

[14]チェンソーマン』22話。

[15]チェンソーマン』80話。

[16] 同上。

[17]チェンソーマン』89話。

[18]チェンソーマン』71話。

[19] 同上。

[20] 同上。

[21]チェンソーマン』81話。

[22]チェンソーマン』22話。

[23] 才華、前掲記事。

[24]チェンソーマン』93話。

[25]チェンソーマン』98話。