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死・マンガ表現・ツイッター

ナイチンゲールという無辜の怪物、『君の名は。』という共同体、そしてポスト真実

togetter.com

2017年のはじめに、ツイッター上でフローレンス・ナイチンゲールに関する、ある逸話が(局所的に)話題になりました。逸話と話題になった様子は上記のまとめを御覧ください。

なぜこのような逸話が掘り起こされたのかというと、Fate/Ground Order(以下FGO)というソーシャルゲームにおいて、史実のナイチンゲールを模したキャラクターが登場し話題となっていたことが大きな要因であったようです。ゲーム上の彼女は、いろいろあるのですがごく簡単に表現すると非常にアグレッシブな性格で、従来の「白衣の天使」「ランプの貴婦人」などといったフレーズとともに流布していたイメージとは一線を画するものでした。このようなナイチンゲール像がFGOプレイヤーの間で広まっていた所に、「薬箱を斧で叩き割る」というバイオレンスな逸話は、センセーショナルなものとして受け入れられたのではないかと想像します。

一方で、この逸話の史実性に関して懐疑的な立場を表明する人も現れました。

ibenzo.hatenablog.com

表題に「訂正」とあることからなんとなく推測される方もいらっしゃるかと思いますが、上記の記事は当初、件の逸話について一切のソースが見つからないものとしていましたが、後にコメントなどからの指摘により、少なくとも幾つかの伝記には件の逸話に関する記述が存在することが判明しました。無論、だからと言って逸話を手放しで史実呼ばわりすることはできませんし、記事内にあるクリミア戦争当時のナイチンゲールやジョン・ポールの置かれた状況からの推測は反駁されていません。

しかし、私が疑問に思うのは、検証記事にもあるように史実と言うには疑問が残る逸話が、何故ツイッター上では「史実」という表現とともに出回ったのか、ということです。これはまとめ作成者や話題を拡散させた人々を糾弾したいとかそういうことでは決してありません。私にそのような資格はありません。私が気になるのは、まとめ作成者やまとめられているツイートの発言者たちが「史実」という単語を用いた理由ではなく(上記検証記事のはてブコメントによると、元のツイート主はご自身が過去に読んだ伝記をソースとしていたようです)、この「逸話」がツイート元を離れてテクストとして自立した後に、有象無象のツイッターアカウントたちによって「史実」として扱われ、拡散していった理由です。

結論を先に言うなら、それはひとえに「その方が面白いから」だったのではないかと思います。そして、今という時代においては、FGOに限らずあらゆる領域で、「史実」と「面白いこと」が混同され、また「面白いこと」が「史実」として扱われるようになりつつあるのではないかと思います。

 

無辜の怪物

さて、記事のタイトルに挙げた「無辜の怪物」という言葉ですが、これはFGO作品世界の用語です。FGO世界には、かつて存在した(あるいはこれから存在することになる)英雄を霊体として現在に召喚するというシステムが存在するのですが、その際に召喚される英霊が生前の活動のイメージに引っ張られて、本来あるべき生前の姿とは異なった姿に変換させられた上で召喚されることがあります。たとえば、ドラキュラ伯爵のモデルとなり、もはやドラキュラ伯爵の方が有名になってしまったヴラド3世は、FGOを含んだFateシリーズのいくつかの作品において、そのイメージに引っ張られて本物の吸血鬼となって召喚されてしまいます。このような現象が起こった際に、その英霊は「無辜の怪物」という「スキル」を持っている、と表現されます。

無辜の怪物たちは、自分を題材にした他者の二次創作的な想像力によって、自らの意志と関係なく変身させられてしまった、ある種の被害者です。大学の日本史学科の卒業論文司馬遼太郎の小説を論拠として持ってくる奴がいて困った、などという笑い話のような怖い話のようなエピソードを時たまSNSなどで見聞きすることがありますが、無辜の怪物はまさにそのような事態の謂いであり、実在した英雄を題材に創作されたコンテンツであるFateシリーズの、あるいはそのシナリオライターである奈須きのこの、自戒と自虐が込められた設定であると言えるかもしれません。

さて、ここで冒頭のナイチンゲールの逸話を巡るツイッター上の盛り上がりに立ち返りましょう。件の逸話は史実だったのか、それともフィクションなのか、それは(少なくとも私には)分かりません。しかし、逸話が「史実」のラベル付きでバズるという事態と、英霊が後世のイメージによって「無辜の怪物」と化すというFGO世界の設定は、パラレルなものであるように私には思われます。もちろん、本当に彼女は薬品箱を叩き割る豪傑だったのかもしれません。ナイチンゲールの死後の時代に生きる私たちは、伝記を材料に彼女について自由な想像をすることができます。FGOもそうした想像力によって創作されたコンテンツです。しかしそれはあくまで創作という水準の出来事であり、「史実」という現実的な水準とは違います。

私が気になるのは、件の「逸話」がツイッターという場で、局所的とは言えどバズっていったということです。「史実」というラベルがつけられた以上、これはFGOというフィクションであることが事前に了解された世界における設定とは次元の異なる事態です。そして、この「史実」がバズったのは、実際のナイチンゲールがどのような人物だったのかとは最初から関係なく、ただ「面白いから」であったように思われます。

拡散元にこの「史実」が本当の意味で史実であるというソースが添付されていなかった以上、件の逸話が「史実」として拡散されたのは「こういう史実があり、それが面白い」というではなく、史実かどうかは措いておいて、まず単に話として面白かったことが要因であると思います。その面白さに比べれば、史実であるかどうかの重要度は低く、むしろ史実だったほうがより面白いので、あまりよく考えられないまま「史実」であることが受け入れられ、拡散されてしまいます。つまり、「史実だから面白い」のではなく、「面白いから史実」なのです。

ここに私たちは、創作上の設定の一つに過ぎなかったはずの「無辜の怪物」と共鳴するものを見て取ることができます。ヴラド3世は何故吸血鬼のような恐ろしい人物として想像されるのか?坂本龍馬はなぜ司馬遼太郎の小説に出てくるような「ぜよぜよ」言う人物として印象づけられるのか?それは、そう考えた方が面白いからであり、後世の創作によって、そう考えたほうが面白いことになってしまったからであり、彼らは「こうだった方が面白い」というある種の力学によって、事実とは関係なく「面白さ」に準拠して構成される存在、言い換えれば「怪物」となってしまいます。

 

ポスト真実、あるいは『君の名は。』が排除したもの(ネタバレ注意)

ポスト真実という言葉が様々な事態に関連して呟かれています。オックスフォード英語辞典は、この言葉を2016年の「今年の言葉」にすると発表しました。

www.bbc.com

 ポスト真実とは、上の記事によれば

オックスフォード辞書によるとこの単語は、客観的事実よりも感情的な訴えかけの方が世論形成に大きく影響する状況を示す形容詞。

であるとのことです。

もう大体おわかりかと思いますが、ナイチンゲールの逸話を巡るバズりは、「ポスト真実」が今年の言葉に選ばれてしまうような、現在の我々が生きる世界の一部であるように思えてなりません。

ナイチンゲールの例に限らず、既に日本のあらゆるフィクションにおいて、ポスト真実時代を反映したかのような表現が見られるように思います。

たとえば、2016年の最もヒットした映画と言って良い『君の名は。』において、主人公の片割れ瀧は、もう一人の主人公・三葉が災害によって死んでしまった世界を否定し、三葉が生きている世界を目指して奮闘します。しかしその結果、三葉が死んだ世界は無かったことになります。映画主題歌になぞらえて言うなら、今世の「君」に会えるのを喜ぶことが全てで、前世と前前世と前前前世の「君」が「僕」に発見されないまま終わったことは無視されています。やっと出会うことができた三葉は、瀧と身体が入れ替わっていた時の三葉と厳密に同じ人間なのでしょうか?災害で死んだ三葉と死ななかった三葉は同じ三葉なのでしょうか?瀧と出会えた三葉の影で、死んでいった三葉はどこに行ったのでしょうか?

しかしそんな疑問は「僕」と「君」が出会う喜びの前に消えてしまい、映画を見る観客のカタルシスのためにあらゆる不穏な要素は、アメリカに入国拒否される中東の人々のように、薬箱を叩き割らなかったナイチンゲールのように、スクリーンから排除されます。あるいは、それで皆が幸せになるなら良いのかもしれません。しかしこの場合の「皆」には、排除された人々は含まれていません。痛みの中で死んでいった三葉、三葉のように糸守から出たいとは思っていなかった人々、テロリストではない中東の人々、などは含まれていません。しかし糸守が災害で壊滅した後、スクリーンに映ることを許されるのは、憧れの東京暮らしを実現した三葉と、東京でも上手くやっていっている様子のテッシーとサヤちんだけであり、たとえば糸守町長だった三葉の父・俊樹や、教室で三葉の陰口を叩いていた女の子はその後どうなったのでしょう?(外伝小説は読んでいないので分かりませんが、この辺りの補完があったりするのでしょうか)

かつて『秒速5センチメートル』で「君」に選ばれなかった男の子を描いていた新海誠が、このような作品を作り、そしてそれが大ヒットを飛ばすようになったという事態に、私は複雑な思いを抱きます。ナイチンゲールにせよ『君の名は。』にせよ、個々の作品やキャラクターが個々としてどうこうと言うよりも、社会的・全体的な風潮とか精神みたいなものが個々の現象に反映しているのではないかと感じざるを得ません。

ナイチンゲールは何故薬箱を叩き割っていなくてはならないのでしょう。三葉は何故生きていなければならないのでしょう。中東の人々は何故テロリストとして見られるのでしょう。それはナイチンゲールや三葉や中東の人々が事実としてそうかということとは関係なく、「その方が面白いから」「その方が都合が良いから」なのではないでしょうか。そして、面白さを妨害する要因はスクリーンなり国境なりから排除され、無かったことになります。国境の中では皆が幸せで、外側は存在しないことになります。そのようにして作られた共同体は、共同体の仲間同士が互いの幸せを願った結果という意味では無辜ですが、しかし間違いなく怪物です。

 

 私はフィクションの中に意味を過剰に読み取りすぎでしょうか。現実と虚構の区別がついていないのでしょうか。しかし我々には、薬箱を叩き割ったナイチンゲールが現実だったのか虚構だったのかすら分からないのです。この記事の少ない読者の中に、中東のイスラム教徒に実際にあったことのある人はどのくらいいるのでしょうか。ナイチンゲールイスラム教徒も、我々の多くにとっては液晶画面の中でのみ認識できる存在です。果たして我々はこれらについて虚実の区別を明確にしているのでしょうか。