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死・マンガ表現・ツイッター

TOHOシネマズ新宿から出て5分くらいの間の経験についての日記、あるいは場所と繋がりについて

TOHOシネマズ新宿に『モアナと伝説の海』を観に行きました。存在とは動物的な快楽原則でも社会的な実用性でもなく、両者を掛け合わせた中で生まれてくる何らかの呼び声、ある種の信仰によって成立するのだ、みたいな話だったと思います。あと飛行石とか腐海とかジブリっぽかったですね。

まぁそれはいいとして、『モアナ』の話ではなくて『モアナ』を観に行った際の付随的な状況の話をします。

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『沈黙』観た:沈黙することの難しさ

映画の話です。

 

『沈黙』、角川シネマ新宿に見に行ったのですが、もう公開から2ヶ月くらい経ってるしチケット買わなくても大丈夫だろと思い、予約無しで行ったところ、見事に満席でした。地方出身者が東京で映画を見るとこういうことが起きます。

以下ネタバレを含みます。あと僕は原作未読です。

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死ぬの怖い(3)―寝るのって怖くないですか

死の話3です。

 

寝る方法

僕の記憶は5歳の誕生日を迎える辺りから始まるんですが、その頃は夜になると両親と僕とで川の字になって寝ていた記憶があります。ある日、僕は自分がそれまでどうやって寝ていたのかを忘れていることに気づきました。睡眠とは……?人間は能動的に寝ることができず、歩くとか手を動かすとかとは違って「俺の体、寝ろ!」という命令を下すことができません。にも関わらず4歳までの僕はなんの苦労もなく寝ていたわけですが、5歳を目前にしたある日、寝る方法を忘れてしまいました。隣で寝ている両親に「眠れない」と訴えても、「目をつむっていればそのうち眠れるよ」などと返されるばかりで、俺が知りたいのはそんなおまじないめいた心得じゃなくて具体的方法なんだよチクショウとと思った記憶があります。しかも両親は僕の心労も知らずにいとも簡単に眠りに就いている様子が伺われ、人間は不平等だという意識もあったような気がします。この時の夜が僕の一番古い記憶です。

そんな最初の夜から今まで、僕はついぞ寝る方法を知らないまま、夜になるたびになんとなく床について、いろいろ考え事をしているうちに気づいたら朝になっている、という生活を続けてきました。私の身体が一日一回、必ず私の意思を完全に離れて、しかも意識の方も完全にシャットダウンする、そんなことを死ぬまでのほぼ毎日において繰り返さなくてはならない、ということが自明な判断として私に与えられる訳ですが、これはとんでもないことです。週一とか月一ではなく毎日、しかも生命活動に欠かせない要素として、一日一回必ず意識を断たなくてはならない!相当怖いことだと思うんですが、このことを話して共感してくれた人は僕の人生で出会う中では一人もおらず、「お前疲れてるんだよ」という反応を返してくれる人が8割です。でも疲れを取るには寝なきゃいけないわけであって、この世は地獄か?

ちなみに残りの2割はただ微笑み返してくれます。

 

 睡眠は死の予行演習では?

これが何故死の話なのかというと、意識している状態から意識ゼロの状態に移行するというのは、我々が死ぬ時も似たようなことが起こると予想されるので、睡眠というのは一種の死の疑似体験というか、予行演習のようなものとして捉えられるのではないかと思うのです。無論、睡眠は何か事情がない限り、意識途絶の瞬間の後にほぼ確実に目覚めることが保証されている(それだって我々が全知でない限り100%の完全な保証ではないのですが)ので、完全なる電源オフからその後無限の時間に渡って意識ゼロ状態になる死とは違うわけですが、少なくとも我々が今際の際に自我を手放す瞬間というのはこんな感じなのかな、という、寝入り端ならぬ死に入り端みたいなものを想像する材料を我々に与えてくれます。

とはいえ、本当に意識が途絶える瞬間というのは我々には知覚できないので、せいぜい「あ〜俺今意識が薄れつつあるわ」的なことを感じることができるに留まるわけですが、生きている状態から死んでいる状態に移行する際もおそらく似たような感じなのではないかと思うので、寝入る瞬間を我々が恐れないように、死ぬ瞬間というのも我々にとっては恐れるべきものでないのだろうと考えられます。

では何が怖いかというと、「意識がとりあえず朦朧としつつも残っているものの、これからせいぜい数時間以内のごく近い未来に自分の意識は途絶えるらしい」という状態が怖いわけです(僕は床についてから完全に睡眠状態に入るまで1〜3時間ほどかかります)。これは死刑執行を待つソクラテスのような心情であり、僕の意志に関係なく、僕の体の、僕の魂?精神?みたいなものとは関係のない物質的な部分が、これから否応なしに僕の意識、いま寝床から天井を見上げたり寝返りをうって壁を見つめたり、外から聞こえてくる車の音を聞いている、あらゆる経験とそれを可能にするものの総合として存在している「僕」を、一時的とはいえ消し去る!やばい!

我々は普段自分の肉体や精神を己の意思によって操作していると考えていますが、一方で毎日起こるイベントであるこの睡眠においては、自分の精神は己の意思とは関係なく不随意に、にも関わらず自分の身体の働きによって操作されます。こんなことが毎日起きているのに、何故我々は我々の心身を自分で操作しているなどと考えられようか?睡眠は私の自己同一性を脅かします。

しかもこの恐怖体験は今日明日に限った話ではなく、これからほぼ毎日繰り返されるのです。完全に拷問です。何故生まれてきてしまったのか。生とは苦では?

しかも、睡眠はかなりの高確率で目覚めを保証してくれていますが、いずれ来る死の時には、なんと人間は永遠の、無限長の時において目覚めないらしいではないですか。無限って何だよ。そして、客観的には無限の時間死んでいる僕は、当然意識どころか脳も焼かれたり腐ったりして消滅するので、主観的には(死んでいるのに主観というのも変ですが)死んだ瞬間から全く時間的な経験は無く、一切の時間が存在しない状態に放り出されることになります。時間がゼロの状態が無限に続くと言い換えてもいいでしょうか。言い換えるとは言っても、これは言葉として成立しているのでしょうか。ゼロが無限?なんなんですかそれは。やめてください。

そして、たぶん僕が死ぬときは、僕が普段寝ているときとよく似た状況、つまりベッドやら布団やらの上に寝転んで意識朦朧としているのではないかと思われるわけですが、その予想される未来の今際の時を、普段の睡眠時の僕の状況は、僕に連想させずにはいません。なので僕は寝る前にかなりの頻度で自分の死について、自分の身体によって半ば無理矢理に考えさせられます。ああ俺は死ぬときのために毎日練習させられているんだなと、悲観的な気持ちになります。なりませんか?なれ!!

 

怖い

怖いです。

 

ナイチンゲール補遺:衛宮士郎の葛藤

前回記事でちょっと足りなかったかなと思う部分があったので補足しておきます。前回はFGOについてやや非難めいたことを書きましたが、僕としてはFateシリーズ自体は「自分に都合の良い物語を語る」ことを肯定するというよりもむしろそのことについての葛藤から始まっていると考えており、理想の実現に向けて都合の悪いものを排除することに対しての罪悪感に常に苛まれ続けていた物語であったと思います。

ぶっちゃけ僕がアレコレ言うよりも東浩紀著『ゲーム的リアリズムの誕生』を読んで貰った方が良いとも思いますが、ナイチンゲールを巡るアレコレがFateシリーズの伝えてきたものに対してどのような位置に置かれるのかは書いておく意味は少しはあるかなと思います。

 

衛宮士郎の葛藤

Fateシリーズが一番最初に消費者の目に触れたのは2004年発表の『Fate/Stay Night』であり、少年・衛宮士郎を主人公とする一連の物語がその始原にあります(正確には『Prototype』がありますが、「消費者の目に触れた」最初という意味で捉えてください)。『Ground Order』まで連なるFateシリーズの出発点として、まず衛宮士郎がどのような登場人物であったのかを考えてみましょう。

彼は一言で言うなら二次創作の体現です。彼の人生は、彼が住んでいる冬木市の全体が焼け野原となった大災害から始まります。彼はこの災害の唯一の生き残りであり、その「生き残ってしまった」負い目から、自分の人生を他者の人生の下にあるものと考え、自分は人の役に立たねばならない、困っている人は助けなければならないという強迫観念めいた義務感に囚われることとなります。彼は自身を、本来は災害によって死ぬ定めであったのに、何故か生き残った、という反実仮想的な形でしか捉えられません。それは、原典たる公式的な物語(災害で死ぬ定め)に対して、「もしこうだったら」という想像力によって非公式な形(何故か生き残った)で存在する、二次創作によく似ています。

また、生き残った彼は義父である衛宮切嗣から「正義の味方になる」という夢を引き継ぎ、成長してからもその目標に従って努力を重ねていきます。言うまでもなくこの夢は切嗣からの借り物であり、士郎が如何にこの夢に殉じたとしても所詮は暖簾分けであって、本家ではありません。

極めつけは彼の魔術師としての能力である「投影」です(言い忘れていましたが彼は魔術の使い手であり、Fateシリーズは魔法とか霊とかが出て来る話です)。彼は史上に存在した様々な名剣・魔剣の類をコピーし、使いこなすことができます。コピーです。彼に彼だけの本物は存在しません。その生まれ育ちから能力に至るまで、彼は何もかもが誰かの二次創作です。そんな彼が、女性のアーサー王というこれまた反実仮想的な存在と出会うのは、ある意味で必然だったのでしょう。

『Stay Night』は、ものすごくザックリと言えば、そんな衛宮士郎が二次創作である自分を受け入れ、肯定し、成長する話です。その成長は「自分の都合の良い物語を語ることは許されるのか?」という問いに貫かれています。たとえば、彼は物語のある時点で、いくつもの有り得る未来のうちのひとつから来た自分(以下、「エミヤ」)と対面します。エミヤは、これまたザックリとしか説明しませんが、要するに正義の味方になることに失敗し、故に未だ理想を抱いている過去の衛宮士郎を憎悪しています。

衛宮士郎が成長するには、エミヤという自分自身の可能性の一つを否定し、エミヤとは違う自分になるしかありません。それは取りも直さず、自分にとって都合の悪い物語を拒否し、都合の良い物語だけを選択するということです。それは災害の中で死んでいった他の人々を押し出して、自分だけが生き残ることとパラレルです。それは自分が王座についたが故に滅んでしまったブリテン王国を拒否し、別の繁栄したブリテン王国を願うことと等価です。

故に衛宮士郎は葛藤します。その果てにどのような結論を彼が見出したのかは各自確認していただくとして、ここで私が言いたいのは要するに、Fateシリーズの原点にはこのような、「自分の都合の良い物語を語ることは許されるのか」という葛藤が刻まれていることを覚えて欲しいということです。

 

「ループもの」のトレンドの変化

前回触れた『君の名は。』に関連させて言うなら、このような切り捨てられていく物語=無かったことになる別の平行世界に対する愛惜・悔悟の念というのは、『君の名は。』が属するところである所謂「ループもの」や、複数ルートの攻略をゲームシステムとして殆どの場合持っている美少女ゲームに常に主題として見出されてきたものです。key作品などの古典的な例については『ゲーム的リアリズムの誕生』を読んだ方が分かりやすいので省きますが、最近であれば『シュタインズゲート』や『魔法少女まどか☆マギカ』などの名前を挙げればピンとくるのではないでしょうか。

こうした主題と関係していた以上、「ループもの」や美少女ゲームは、もともとはナショナリズムやポスト真実のようなものとは対抗するジャンルであった筈です。しかし『君の名は。』やナイチンゲールの逸話をめぐるアレコレはそうした記憶をあっさり忘れてしまっています。死んでいった世界の三葉や優しかったかもしれないナイチンゲールを無かったことにする時、衛宮士郎を通じて我々が通過したはずの葛藤もまた無かったことにされています。

私がポスト真実だ何だと言ったのは、『君の名は。』やそれに類するコンテンツ全体に対してではなくて、こうしたトレンドの変化、衛宮士郎的葛藤から『君の名は。』的エンタテインメントへと消費者が求めるものが変化していることに対してでした。

この辺りについてツイッターで質問して下さった方があり、もしかしたら前回記事だけでは不足があったかもしれないと考えたので、補遺として書き置いておきます。

 

しかしなんというか、衛宮士郎から始まっているFateシリーズにおいて、先のナイチンゲール云々が無邪気に史実呼ばわりされるというのは皮肉としか言いようがありません。『Stay Night』まで遡らなくてもちょっと前に『Zero』で切嗣が正義の味方であるために大量に殺さなくてはならなかった苦しみが描かれて、言うなれば士郎の葛藤が再演されていたわけですが、やっぱアニメでおもしろ顔しちゃったのがよくなかったのか?

ナイチンゲールという無辜の怪物、『君の名は。』という共同体、そしてポスト真実

togetter.com

2017年のはじめに、ツイッター上でフローレンス・ナイチンゲールに関する、ある逸話が(局所的に)話題になりました。逸話と話題になった様子は上記のまとめを御覧ください。

なぜこのような逸話が掘り起こされたのかというと、Fate/Ground Order(以下FGO)というソーシャルゲームにおいて、史実のナイチンゲールを模したキャラクターが登場し話題となっていたことが大きな要因であったようです。ゲーム上の彼女は、いろいろあるのですがごく簡単に表現すると非常にアグレッシブな性格で、従来の「白衣の天使」「ランプの貴婦人」などといったフレーズとともに流布していたイメージとは一線を画するものでした。このようなナイチンゲール像がFGOプレイヤーの間で広まっていた所に、「薬箱を斧で叩き割る」というバイオレンスな逸話は、センセーショナルなものとして受け入れられたのではないかと想像します。

一方で、この逸話の史実性に関して懐疑的な立場を表明する人も現れました。

ibenzo.hatenablog.com

表題に「訂正」とあることからなんとなく推測される方もいらっしゃるかと思いますが、上記の記事は当初、件の逸話について一切のソースが見つからないものとしていましたが、後にコメントなどからの指摘により、少なくとも幾つかの伝記には件の逸話に関する記述が存在することが判明しました。無論、だからと言って逸話を手放しで史実呼ばわりすることはできませんし、記事内にあるクリミア戦争当時のナイチンゲールやジョン・ポールの置かれた状況からの推測は反駁されていません。

しかし、私が疑問に思うのは、検証記事にもあるように史実と言うには疑問が残る逸話が、何故ツイッター上では「史実」という表現とともに出回ったのか、ということです。これはまとめ作成者や話題を拡散させた人々を糾弾したいとかそういうことでは決してありません。私にそのような資格はありません。私が気になるのは、まとめ作成者やまとめられているツイートの発言者たちが「史実」という単語を用いた理由ではなく(上記検証記事のはてブコメントによると、元のツイート主はご自身が過去に読んだ伝記をソースとしていたようです)、この「逸話」がツイート元を離れてテクストとして自立した後に、有象無象のツイッターアカウントたちによって「史実」として扱われ、拡散していった理由です。

結論を先に言うなら、それはひとえに「その方が面白いから」だったのではないかと思います。そして、今という時代においては、FGOに限らずあらゆる領域で、「史実」と「面白いこと」が混同され、また「面白いこと」が「史実」として扱われるようになりつつあるのではないかと思います。

 

無辜の怪物

さて、記事のタイトルに挙げた「無辜の怪物」という言葉ですが、これはFGO作品世界の用語です。FGO世界には、かつて存在した(あるいはこれから存在することになる)英雄を霊体として現在に召喚するというシステムが存在するのですが、その際に召喚される英霊が生前の活動のイメージに引っ張られて、本来あるべき生前の姿とは異なった姿に変換させられた上で召喚されることがあります。たとえば、ドラキュラ伯爵のモデルとなり、もはやドラキュラ伯爵の方が有名になってしまったヴラド3世は、FGOを含んだFateシリーズのいくつかの作品において、そのイメージに引っ張られて本物の吸血鬼となって召喚されてしまいます。このような現象が起こった際に、その英霊は「無辜の怪物」という「スキル」を持っている、と表現されます。

無辜の怪物たちは、自分を題材にした他者の二次創作的な想像力によって、自らの意志と関係なく変身させられてしまった、ある種の被害者です。大学の日本史学科の卒業論文司馬遼太郎の小説を論拠として持ってくる奴がいて困った、などという笑い話のような怖い話のようなエピソードを時たまSNSなどで見聞きすることがありますが、無辜の怪物はまさにそのような事態の謂いであり、実在した英雄を題材に創作されたコンテンツであるFateシリーズの、あるいはそのシナリオライターである奈須きのこの、自戒と自虐が込められた設定であると言えるかもしれません。

さて、ここで冒頭のナイチンゲールの逸話を巡るツイッター上の盛り上がりに立ち返りましょう。件の逸話は史実だったのか、それともフィクションなのか、それは(少なくとも私には)分かりません。しかし、逸話が「史実」のラベル付きでバズるという事態と、英霊が後世のイメージによって「無辜の怪物」と化すというFGO世界の設定は、パラレルなものであるように私には思われます。もちろん、本当に彼女は薬品箱を叩き割る豪傑だったのかもしれません。ナイチンゲールの死後の時代に生きる私たちは、伝記を材料に彼女について自由な想像をすることができます。FGOもそうした想像力によって創作されたコンテンツです。しかしそれはあくまで創作という水準の出来事であり、「史実」という現実的な水準とは違います。

私が気になるのは、件の「逸話」がツイッターという場で、局所的とは言えどバズっていったということです。「史実」というラベルがつけられた以上、これはFGOというフィクションであることが事前に了解された世界における設定とは次元の異なる事態です。そして、この「史実」がバズったのは、実際のナイチンゲールがどのような人物だったのかとは最初から関係なく、ただ「面白いから」であったように思われます。

拡散元にこの「史実」が本当の意味で史実であるというソースが添付されていなかった以上、件の逸話が「史実」として拡散されたのは「こういう史実があり、それが面白い」というではなく、史実かどうかは措いておいて、まず単に話として面白かったことが要因であると思います。その面白さに比べれば、史実であるかどうかの重要度は低く、むしろ史実だったほうがより面白いので、あまりよく考えられないまま「史実」であることが受け入れられ、拡散されてしまいます。つまり、「史実だから面白い」のではなく、「面白いから史実」なのです。

ここに私たちは、創作上の設定の一つに過ぎなかったはずの「無辜の怪物」と共鳴するものを見て取ることができます。ヴラド3世は何故吸血鬼のような恐ろしい人物として想像されるのか?坂本龍馬はなぜ司馬遼太郎の小説に出てくるような「ぜよぜよ」言う人物として印象づけられるのか?それは、そう考えた方が面白いからであり、後世の創作によって、そう考えたほうが面白いことになってしまったからであり、彼らは「こうだった方が面白い」というある種の力学によって、事実とは関係なく「面白さ」に準拠して構成される存在、言い換えれば「怪物」となってしまいます。

 

ポスト真実、あるいは『君の名は。』が排除したもの(ネタバレ注意)

ポスト真実という言葉が様々な事態に関連して呟かれています。オックスフォード英語辞典は、この言葉を2016年の「今年の言葉」にすると発表しました。

www.bbc.com

 ポスト真実とは、上の記事によれば

オックスフォード辞書によるとこの単語は、客観的事実よりも感情的な訴えかけの方が世論形成に大きく影響する状況を示す形容詞。

であるとのことです。

もう大体おわかりかと思いますが、ナイチンゲールの逸話を巡るバズりは、「ポスト真実」が今年の言葉に選ばれてしまうような、現在の我々が生きる世界の一部であるように思えてなりません。

ナイチンゲールの例に限らず、既に日本のあらゆるフィクションにおいて、ポスト真実時代を反映したかのような表現が見られるように思います。

たとえば、2016年の最もヒットした映画と言って良い『君の名は。』において、主人公の片割れ瀧は、もう一人の主人公・三葉が災害によって死んでしまった世界を否定し、三葉が生きている世界を目指して奮闘します。しかしその結果、三葉が死んだ世界は無かったことになります。映画主題歌になぞらえて言うなら、今世の「君」に会えるのを喜ぶことが全てで、前世と前前世と前前前世の「君」が「僕」に発見されないまま終わったことは無視されています。やっと出会うことができた三葉は、瀧と身体が入れ替わっていた時の三葉と厳密に同じ人間なのでしょうか?災害で死んだ三葉と死ななかった三葉は同じ三葉なのでしょうか?瀧と出会えた三葉の影で、死んでいった三葉はどこに行ったのでしょうか?

しかしそんな疑問は「僕」と「君」が出会う喜びの前に消えてしまい、映画を見る観客のカタルシスのためにあらゆる不穏な要素は、アメリカに入国拒否される中東の人々のように、薬箱を叩き割らなかったナイチンゲールのように、スクリーンから排除されます。あるいは、それで皆が幸せになるなら良いのかもしれません。しかしこの場合の「皆」には、排除された人々は含まれていません。痛みの中で死んでいった三葉、三葉のように糸守から出たいとは思っていなかった人々、テロリストではない中東の人々、などは含まれていません。しかし糸守が災害で壊滅した後、スクリーンに映ることを許されるのは、憧れの東京暮らしを実現した三葉と、東京でも上手くやっていっている様子のテッシーとサヤちんだけであり、たとえば糸守町長だった三葉の父・俊樹や、教室で三葉の陰口を叩いていた女の子はその後どうなったのでしょう?(外伝小説は読んでいないので分かりませんが、この辺りの補完があったりするのでしょうか)

かつて『秒速5センチメートル』で「君」に選ばれなかった男の子を描いていた新海誠が、このような作品を作り、そしてそれが大ヒットを飛ばすようになったという事態に、私は複雑な思いを抱きます。ナイチンゲールにせよ『君の名は。』にせよ、個々の作品やキャラクターが個々としてどうこうと言うよりも、社会的・全体的な風潮とか精神みたいなものが個々の現象に反映しているのではないかと感じざるを得ません。

ナイチンゲールは何故薬箱を叩き割っていなくてはならないのでしょう。三葉は何故生きていなければならないのでしょう。中東の人々は何故テロリストとして見られるのでしょう。それはナイチンゲールや三葉や中東の人々が事実としてそうかということとは関係なく、「その方が面白いから」「その方が都合が良いから」なのではないでしょうか。そして、面白さを妨害する要因はスクリーンなり国境なりから排除され、無かったことになります。国境の中では皆が幸せで、外側は存在しないことになります。そのようにして作られた共同体は、共同体の仲間同士が互いの幸せを願った結果という意味では無辜ですが、しかし間違いなく怪物です。

 

 私はフィクションの中に意味を過剰に読み取りすぎでしょうか。現実と虚構の区別がついていないのでしょうか。しかし我々には、薬箱を叩き割ったナイチンゲールが現実だったのか虚構だったのかすら分からないのです。この記事の少ない読者の中に、中東のイスラム教徒に実際にあったことのある人はどのくらいいるのでしょうか。ナイチンゲールイスラム教徒も、我々の多くにとっては液晶画面の中でのみ認識できる存在です。果たして我々はこれらについて虚実の区別を明確にしているのでしょうか。

死ぬの怖くないですか(2)―「何か」の声

死の話2です。

 

ウラジミール・ジャンケレヴィッチというフランスの哲学者がいまして、名前がロシアっぽいのは両親がロシア帝国からの移民だからなんですが、この人は『死』というそのものズバリな本を書いています。超いい本なので皆さん読んで下さい。8000円くらいするので僕は持っておらず、図書館で断続的に借りて読みました。なので現物が今手元になく、今後この本の内容に触れるときは出典を明記できないうろ覚えであることを予めご容赦ください。

で、この『死』という本において、ジャンケレヴィッチは人間が自分の死を自覚する過程について述べています。それによると、人間は「死ぬ」ということを、本質的には知ることができない。どういうことかというと、人間はまず自分以外の親類や友人、あるいは報道される他者などの死に触れることで「死」というものを知ります。いろいろな形でいろいろな人の死に触れます。そのうちに、どうやら人間というものは皆例外なく死ぬらしいということがなんとなく分かってきます。しかし、それでもなんとなく、自分だけは死なないんじゃないかな、自分が死ぬ前に不老不死の薬とかが発明されるかもしれないな、という希望を心の何処かに抱き続けます。その人にとっての「死」は、「少なくとも知っている中に死なない人はいない」という、蓋然性の域を出ないからです。かくしてそんなことはなく、自分は年を取り、身体の自由が徐々に制限され、見聞きする死もどんどん身近さを増していく。どうやら自分は死を免れないらしいということが分かってくる。そしていよいよ死を覚悟する。しかし、それでもその人は死を知ることはない。何故なら、死を知るという事は要するに死ぬということであり、死を知った瞬間にはもうその知は消滅しているからです。

こうした意味で、人間は「死ぬ」ということを本当の意味で知ることはないし、言い方を変えれば、人間は自分の死を永遠に延期し続けることができる。延期が不可能になったときには、その人は既にあらゆる認識を止めているからです。

結局、人間が死について知ることができるのは、自分以外の人間の死に触れることで得られるある種の憶測のみです。しかし、これも死についての直接の知識ではない。死を直接知った人は既に「死人に口なし」になっているからです。我々は死について知ろうとする時、その核の部分に触れることは決してできず、いわば死の周辺をウロウロすることしかできません。核に触れることができた時、その人は死んでいます。

なので、「自分が死ぬ」ということについても、老いや病気などの死に近い事柄の当事者になっていない限り、人間は先に言ったようになんとなく実感の持てない、「ワンチャン俺だけは死なないんじゃね」的な希望を常に残し続ける形でしか、基本的には捉えることができないということになります。

 

しかし一方で、いろいろ読んでいると、老いや病気とは関係ない形で「自分は死ぬ」ということを疑い得ぬ事実として認識した人も割りといることが分かります。たとえば、堀江貴文は6歳の時に「自分は死ぬ」事に気づき、そのことを考えないようにするために自分を忙しくしていると言います(AERA 2011年6月6日号)。他には、同じく6歳で自分の死ぬ運命に気づき、その恐怖を抱えて哲学者となった中島義道が有名でしょうか。

自分の死について経験的に知ることはできない、にも関わらず「自分が死ぬ」ということについて疑い得ぬ事実として認識する人がいる、これは不思議な事です。自分の死は、数学の定理のように経験的な形で試験してみることができない(試験してみる行為は一般に「自殺」と呼ばれている)。人は経験できない事実について何故、心底恐怖することができるのか?私は「自分は死ぬ」に囚われて不眠になった時、こうした問いを虚空に向かって恨めしく繰り返していました。

 

経験できないことを疑いないものとして認識するのは、比喩的な言い方ではありますが、神とか精霊みたいなものが私に対してそのような声をかけるからであるように感じられます。これはあくまで比喩なので、雲の上に居る髭モジャ爺さん(だいたい白人)が私に電波通信で呼びかけたとかそういうことではなく、私にとって外部的なものとしか思えない情報が、突然私の頭のなかに湧いてきたような感覚です。外部的とは言っても、「自分は死ぬ」という情報は私にとって既知のものだったので、私にとって新しいのは「自分は死ぬ」ということではなく、その情報を私にとって外部的、しかも疑いようなく正しいことしか言わない何者かが外部から伝えてきた、と感じさせる「何か」です。人間の脳はこの「何か」を、どういう条件下でかは知りませんが自身のうちに発生させるようです。発生させるものに敢えて名前をつけるとしたら、神とか精霊とかの超自然的存在の名で呼ぶしかありません。似たような考え方としては、ホメロス叙事詩などに時折出てくる「アテナがオデュッセウスに〜〜という考えを起こさせたので、そのようになった」みたいな表現は、これに近いものを感じさせます。

ソクラテスのダイモーンなどもそうだと思いますが、死の問題に限らず人間は時たまこのような「何か」を自身のうちに発生させることがあるようです。我々の思考を強制的に方向づけるこの「何か」は何なのか。そのことについて考えるのが、死そのものについて知ることにはならずとも、死の恐怖について考えることになるのではないかと思います。

東方鈴奈庵第43話における八雲紫の胡散臭い空間

東方の話です。

鈴奈庵と茨歌仙がほぼ同時に発売され、どちらも表紙カバーに紫がいたので少し驚きました。なにせ彼女は最近になってめっきり露出が少なく、三月精儚月抄の頃のような黒幕ポジションはマミゾウに奪われつつあったので、これはいよいよ新旧腹黒老婆抗争が始まるのかと思いましたが、別にそんなことはありませんでした。

(以下、鈴奈庵6巻ネタバレあり)

 

 

 

 

で、その紫ですが、鈴奈庵6巻では43話「人妖百物語」後編に、怪談話をしにくる人妖たちのうちの一人として登場します。博麗神社の境内に組まれた櫓の上で行われる百物語ですが、しかし紫は空間的なポジションにおいて非常に特殊な現れ方をしています。

 

紫は櫓の上にいない

まず、これは櫓の上を俯瞰から描いたコマです。


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(鈴奈庵6巻96頁。)
ご覧の通り鈴奈庵のレギュラー連中に混じって見覚えのある影もありますが、紫はこの中にはいません。櫓の全体を俯瞰するショットはこれを含めて3つあるのですが、そのどれにも紫は存在しません。

当初はレミリアの後ろにいる女性が紫かなと思いましたが(紫の肩越しに魔理沙・黒髪の少女・小鈴・阿求が映っているショットのコマが108頁にあり、紫はこの4人の対角線上に居ると思われた)、この女性はZUN帽を被っていませんし、後のコマで正面から顔が写った際にほうれい線の走った、紫とは別の老婆であることが分かります。紫はかれこれ2000年くらいアンチエイジングに余念がないのでほうれい線はありえません。というかいくら薄暗いからって悪魔の主従の背後に居座れるこの老婆は何者なんだよ


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(同上115頁。周囲に異変が起こっているのにレミリアの背後で不敵な笑みを保つ老婆)


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(同上108頁。紫の肩越しのショット。黒髪少女はなかなか良い位置に座っており、小鈴か魔理沙の知り合いか?)

 

そもそも、百物語の主な話者であるマミゾウと紫を比較すると、他の登場人物との位置関係が分かるようになっているコマが多いマミゾウに対して、紫はバストショットばかりで位置関係がわかりにくいコマにばかり登場しているのも気になります。唯一他キャラと一緒に映っている前述の肩越しショットのコマも、俯瞰コマから考えてみればレミリア・咲夜が座っているはずの位置か、その前方の蝋燭が密集しているはずの場所にいるような描写がされています。


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(同上103頁。吹き出しにカブられる黒い口髭の男。マミゾウはこの男の向かって左隣に座っている)

 

単に人物の配置を劇作に合わせて融通してるんじゃないかと思われるかもしれませんが、一方で紫以外の人物は各コマにおいてかなり厳密に配置の一貫性が守られています。紫だけが妙に胡散臭い空間に存在しており、おそらくですがこれは制作側が故意に行った演出ではないかと思われます。


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(同上99頁。小鈴視点のコマ。俯瞰のコマと照らし合わせると、各キャラの座り位置と無矛盾であることが分かるし、黒口髭の男が妖夢の吹き出しによってまたもやカブられていることも分かる。更に咲夜・レミリアを画面から隠すように若干身を乗り出している新たな白い口髭の男。幻想郷の男の間では口髭が流行っているのか?)

 

紫は作品内世界と現実世界の境界にいる?

思うに、紫のいる空間は作品内世界でありながら同時にそうではないような、強いて言えば鈴奈庵というマンガを物質的に構成している紙の表面、紙面上としか言いようのない空間です。理屈の上では櫓の上のどこにもいないはずの紫は、紙面上に視覚イメージとして他のコマと共存しているということによって、作品世界内の空間的な矛盾を無視してその場に存在することになっています。すなわち、紫がいるのは作品世界のレベルと表現のレベルの境界であり、それは言うなれば、自分が紙の表面に付着したインクの染みであることに自己言及するような存在の仕方です。これは茨歌仙7巻の中でも読み取れることで、例えば黒ベタ塗りの中から紫の腕だけがにょっきり伸びてくる描写は、彼女が紙面に付着した黒インクの延長上に存在しているかのようです。


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(茨歌仙7巻80頁。頁の裁ち切り右上隅から吹き出しが出ているのも「書籍の外側からやってきた」感がある。) 

 

紫は境界を操る能力の持ち主であり、求聞史紀によると絵や物語の中にも入り込むことができるらしい。鈴奈庵43話における紫は、作品内世界と読者のいる現実世界とを隔てる、紙面という無限小の薄さの中に座っています。なんとなく三月精の「2つの世界」を思い出しますね。


無論、話している間だけコマの外側でスキマの中から現れて、話し終わったらさっさと帰っていっただけの可能性もありますが、もしかしたら紫は我々の居る現実世界から鈴奈庵の紙面に侵入しているのか、あるいは幻想郷から見ると我々のいる世界も絵か物語として見えていて、紫が幻想郷側からこちら側へと戯れにはみ出してきたのか、などと妄想してみると面白い。いきなり出てきて櫓の上の半数の人間には分からないスキマネタを話し始めるのも、どうせ東方ファンであろう読者への目配せであるようにも思える。

 

虚構と現実

そもそも鈴奈庵全体、あるいは深秘録あたりからの神主の表現やおまけテキストなどにおけるSNSの問題への言及を鑑みると、最近の東方Projectには、虚構と現実の境界、リアルとフィクションの区別を寓話的に問うような意識が共通しているように思います。鈴奈庵6巻で言えば冒頭の38・39話「情報の覇者は萃か散か」はまさしくそうした主題の話です。

深秘録で登場した菫子にしたって、外界で夢を見ている間は幻想郷内にいるという設定は明らかに荘子の「胡蝶の夢」を参照していますし、胡蝶の夢とは「夢と現実ってどっちが本物なのか分からないよね」という話であって、彼女の設定自体が虚と実の境界を問うものになっています。

宇佐見菫子という名前も蓮子との血の繋がりを示すとともに「菫色(薄い紫)」への言及を含んでいるように思いますし、菫子自体にも何かしら境界に関わる要素が含意されている?もしかしたら今後紫との繋がりが示されるかもしれません。

菫子の設定については、虚実の境界に関連した神主の東方ファンに対する痛烈な皮肉が込められているような気がしますが、それはまた今度。

 

茨華仙での紫はなにやら企んでいるらしく、急速に黒幕っぽい存在感を増しました。一方のマミゾウはハラペコ鬼に一杯食わされた挙句クッソ寒いダジャレをかましてしまうなど、ここにきて失点が目立ちます。果たしてこのまま古参腹黒の紫が再び黒幕ポジションに返り咲くのか、ここから新参腹黒マミゾウが巻き返すのか、新旧老婆抗争の続く中、レミリアの背後で謎の老婆が静かに微笑んでいる……