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死・マンガ表現・ツイッター

視界が虹色に歪んだのでMRIに行った

日記。

 

生きてるとたまに伏線回収みたいなことが起こる。今回の伏線は、某ソシャゲのキャラクターだった。そのキャラクターには「頭痛持ち」という悪影響のあるステータスが設定されていたのだが、昨日だか一昨日だかのバージョンアップによって、イベントをこなすと「頭痛持ち」が良い効果を持った別のステータスへと変化するようになったらしい。SNSでその情報を見かけたのが昨日、2月19日のことだった。さっき、というのは2月20日のことだが、この伏線が回収された。

 

ひとり暮らしの大学院生である僕は勉強をしなければずっと暇人状態だ。今日は正午ごろに起き出して午後から勉強会に行く予定だった。しかし、昼食を終えて一段落していると、何か目に違和感を感じた。よく見ると、視界の左端に、太陽を直接見たときに見える焼付きみたいなアレがあった。何か眩しいものを見たっけなと思っていると、その焼付きがどんどん広がっていった。広がり方は、喩えるなら水面に油を一滴垂らしたようなといった感じで、広がっていく輪のフチは油膜のように虹色に歪んでいて、輪の中心部分は普通に見えるのだが、輪のフチで切り取られた部分がその外側の視界と上手く整合してくれず、録画失敗したVHSの歪みのような感じでちぐはぐになっていた。

インターネット時代の人間が不気味な症状に出会ったときにすることは、スマホを取って「視界 歪む」とかそういう感じのキーワードでググりまくることだ。調べていくうちに、「閃輝暗点」というものが今の自分の視界の記述としてよく当てはまるように思われた。

 

閃輝暗点 - Wikipedia

 

どうやら偏頭痛の予兆となる症状らしい。まだ痛みは感じなかったが、念の為常備してある鎮痛剤を飲んだ。

どうも眼科よりは神経内科にかかるのが良いものらしいことがわかったので、即座に近くの神経内科に予約を取り(このとき視界の油膜が視界のド真ん中に差し掛かっていてスマホの操作が難しかった)、勉強会にはキャンセルの連絡を入れて、予約の時間になるまでは仮眠を取ることにした。とはいえさっき起きたばかりなので、kindleで昨日買った『イデオロギーの崇高な対象』を音声読み上げさせたのを聞きながら目をつむるだけにした。

kindle音声のジジェクフロイトマルクスの共通点について話し始めた頃、頭痛が始まった。鎮痛剤のお蔭でそこまで苦しくはなかったが、それでも頭の右側がジクジクと痛くなった。同時にジジェクが言うには、夢や商品が隠喩しているものではなく、夢や商品がいかにして何かを表象するのかについて考えろとのことだった。自分の視界の歪みがどのようにして起こっているのかは自分には分からなかった。後で神経内科の先生に聞いたことだが、この症状が起こるメカニズムはまだ判明していないらしかった。

 

神経内科の待合室には老夫婦が3組ほどいて、僕は彼らが全員済んだ後に診断されるらしかった。老夫婦たちは、全員がまるでルールで決められているかのように、会計時に受付の女性に心底どうでもいい世間話をしていた。この世間話への応対によって発生する感情労働は彼女たちの給料に反映されず、世間話が増えれば増えるほど、マルクスが搾取率と呼んでいるものが上がっていくのだなと僕は思った。老夫婦の会話という表象が隠喩しているものを読み取ることを、ジジェクは批判するのだろうか?

神経内科の窓の外には雑木林が広がっていた。老夫婦を見るのに飽きて窓の外をぼおっと見ていると、雑木林の外に、たぶんセキセイインコだと思うが、全身緑色の鳥が何匹か飛んでいるのが見えた。

今になって冷静に考えてみれば、飼われていたセキセイインコが野生化するのは別に有り得ないことではないのだが、自分の脳神経に疑いと不安を持っていた待合室の僕は、果たして日本に野生のセキセイインコがいるのかどうか不安になり、自分の視覚が不安になってきた。不安を紛らわすために、今日一緒に勉強会をする予定だった後輩にセキセイインコのことを報告すると、アルトーみたいだと言われた。アルトーのことはよく知らない。

診察してくれた先生はとりあえず好印象で、僕の腕とか膝を叩いたりして反射を確かめる手付きには慣れを感じさせた。僕の専門を聞いてきたので、どの程度詳しく教えればいいのか一瞬考えてから、「20世紀初頭のアメリカ新聞マンガです」と答えてから、答えが詳しすぎてキモいなと自分が嫌になった。

先生の診断はグーグルと同じく閃輝暗点であろうとのことで、まず大丈夫だが稀に脳梗塞や腫瘍が見つかることがあるので、MRIに行けとのことだった。今日中に受けられるMRIの施設を予約してもらった。

 

診断料は思ったよりも高く、しかもMRIの費用はまた別途かかるとのことだった。MRIを一回受けるのにかかる費用をググってみると、今月の僕は食費を賄えなくなったことがわかった。悩んだ挙げ句、実家に金銭援助を頼むことにした。

MRIを受ける前に一旦家に帰って夕飯を食べている間、僕の精神状態は最悪だった。僕は現状、財政を完全に実家に依存しており、勉強のためにバイトは最小限にしなければならない。そうして毎月をほぼトントンで生きている。そうした生活は、今回のようなイレギュラーな事態が起こると途端に金銭的に破綻する。もし、わざわざ東京くんだりまで来て大学院生にならずに、地元で就職し安定収入を得ていれば、MRI一回で生活が破綻したりはしなかっただろう。もちろんその時は勉学は諦めることとなる。生きることと自己実現とはどちらが先に来るのだろう。自己実現とは生命あってのことだが、生きることのために自己実現を諦めたとして、その場合の自分が毎日をどのような精神状態で過ごしているのか、想像するだけで恐ろしいように思われた。

一応僕は国立大学の博士課程学生であり、日本以外の先進国では国立大学の博士課程には授業料が発生せず、金銭的支援もある程度受けられるのが普通らしいが、日本ではそのどちらも実現していない。僕が博士課程をやっていられるのは、偶然にも実家が太いからに他ならない。こうしたことは日本の景気の悪さを表していると考えるのが自然だと思うが(表しているとは何だ?とジジェクが言う)、実家に帰るたびに父親は「日本が不景気だと言っている連中の陰謀に気をつけろ」的な話をしてくる。いい年こいて父親に養われている僕はそれに対し強いて反論するようなことはしないし、仕送りを増やしてくれなどとは言いにくい。父親からすれば、「日本の景気は良い」のだから、バイトをそれなりにすれば金銭的には困らないはずで、にもかかわらず僕が困っているのは僕が頑張っていないからだ、ということになるのだ。僕の自己実現の可否は実家の機嫌一つで変化する。それが嫌なら勉学なんかやめて働けば良いのだし、両親にはそのように言う権利があることになっている。生きることは自己実現よりも優先されるし、両親がそう考えるのは彼らが僕を愛している証拠であると言える。両親は僕に生きてほしいのだ。僕はそうした考えに反論することはできるが、余計なことを言って両親の機嫌が悪くなれば、割りを食うのは自分だ。

 

MRIの施設は妙におしゃれに飾られていて、つやつやした木材の壁に知らないアーティストの描いたグラフィティ風の絵がいくつも飾られていた。そのうちの一つに

"The problem is all inside your head"

と書かれていた。僕の人生を演出している演出家がどこかにいるのだとしたら、この演出を思いついたことを理由にクビにしたいなと思った。面白くないことはないけどダサすぎる。problemが複数形ではなく定冠詞の単数形になってるのも気になった。人間のいっけん複数に見える問題が結局は抽象的な一つの問題の変奏に過ぎないのだとしたら、人間にとっての最適解は自殺だ。何故なら、そのときのThe problemとは自己のことに他ならないからだ。"I am the problem!" 『イデオロギーの崇高な対象』はまだ第1章の触りまでしか読めていないが、そこまで読んだ限りではジジェクはThe problemに与するように思える。problemsに与する思想家たちが必要だ。

MRIを受ける前に医師の問診を受けたが、質問してくる医師は見るからに疲れ果てていて、うなだれながら所定の質問を投げかけてきた。これ以上の心労を与えるのは人道にもとるように思われたので、可能な限り手早く済ませた。

MRIの機器が独特のけたたましい音を立てるのは以前どこかで聞いたことがあったが、音への対策としてヘッドホンで音楽を聞かされることは知らなかった。ヘッドホンからはサティのジムノペディがゆるゆると流れていた。ゆるゆるすぎてMRIの音を全く誤魔化せていなかったが、それでも機械音の合間を縫ってゆるゆると耳に届いていた。僕の頭は檻のような器具で固定されていて、機器内部の抽象的な模様から目がそらせない状態になっていた。ヘッドホンの中でピアノが瀟洒なメロディを奏でようとするたびに、無粋極まりないMRIのゴンゴンゴンゴンゴンボンボンボンギギギギギがそれを打ち消してきた。諸々の状況がなんだかシュールレアリスティックな感じがして笑ってしまった。MRIは僕の笑いの脳を記録しているのだろうかと思った。

検査が終わって、今月分の食費になるはずだった金を全て払い終わると、両親から心配のラインが飛んでいたことに気づいた。僕が両親への疑心暗鬼で狂っている間、二人はきちんと僕の心配をしてくれていたのだった。金銭的支援もしてくれるとのことだった。

父は医師をやっていて、その父が言うには、偏頭痛は一回起こるととその後「頭痛持ち」というステータスが付与されたような状態になり、頻度に差はあれ定期的に再発することになることが多いという。「偏頭痛になる」という表現があり、それは頭痛自体の発生よりも、そうしたステータス所持の状態になることを意味しているらしかった。

僕は、ソシャゲのキャラクターが失った偏頭痛が自分に移って来たような気がした。視界の歪みは今はなくなっている。MRIの結果は後日分かるので、自分の脳がどうなっているのかまだ知らない。

 

メッセージの量と蓄積

ツイッターで言ったことの掘り下げです。

 

スーパーやコンビニなどで子供がゴネているのをよくよく見てみると、子供は同じ単語や文を何度も何度も 繰り返していることがわかります。そして繰り返すごとに徐々に声量が大きくなったり、金切り声になっていったりして、子供が自分の声をなるべく耳障りなものにしようと努力していることが伺えます。

思うに、子供はメッセージを質ではなく、量として認識しているのではないでしょうか。大人や友達が自分の言うことを聞いてくれないのは、伝えようとしているメッセージの内容や伝え方が悪いのではなく、相手に十分な量が届いていないからだと捉えている、と考えてみてはどうか。だから子供はゴネるための言葉を別のものに変えたり、交渉をしたりするよりも、メッセージを発する回数を増やしたり、声をなるべく相手の意識に届くような、要するに煩くなるようなものにして、相手のメッセージ貯蔵庫のような場所に可能な限り自分の意思を送り届けようとします。一定量のメッセージが貯まれば、相手は自分の言うことを聞いてくれる、というわけです。

こうした認識は、取りも直さず、言葉が自分の考えや伝えたいことを、余すことなく透明に表現するものであるという思想を前提としています。これは言葉というよりも動物の鳴き声に近いものです。概念を伝達すると言うよりは、相手に特定の情動を起こさせることを目的としており、例えば犬が威嚇するときの鳴き声は相手に恐怖の情動を起こさせることが目的であり、相手がなるべく恐怖してくれるように犬は何度も、より大きく鳴こうとします。

しかし大人は、ある種の理想的な大人は、鳴き声ではなく言葉の世界(カッコつけて言うなら象徴界)の中で生きているので、子供の鳴き声によっては基本的には動かされません。大人を動かすには、自分が提案していることに相手が同意することによっていかなるメリットがあるかを様々な言葉を用いて説明し、説得しなければなりません。説得がうまくいかない場合は、表現や提示する内容を変化させ、違うアプローチを試していく必要があります。子供はこのことを理解していないので、そしてしばしば大人も子供のことを理解していないので、スーパーでは今日もお菓子を買わない理由を「説明」する親と、「お菓子買って」をひたすら連呼する子供の対決が繰り広げられます。

さて、そんなことを考えながら私はゴーゴーカレーでロースカツ(エコノミークラス)を食べていたのですが、店内BGMで流れている曲(誰の何という曲かは知らない)が「君が好きだよ~何万回でも言うよ~」みたいなことを歌っていました。生活していると、このように思考していることと外界からやってくる情報とが奇妙にマッチする瞬間がたびたび訪れます。つまりこの歌においても、メッセージは量として捉えられていて(自分は今後常にオマエに好きという用意を保ちつづけるぞ、そういう覚悟でやっていくぞ、というような意味もあるかもしれませんが)、好きという感情は表現を変えるよりは回数で攻めていくような戦略を取っていくぞ俺は、ということだと私には聞こえました。

実際、音楽は量で攻めるべき側面もあります。広告代理店は自分たちが推そうとする音楽を様々なメディアで何度も流し、聴取者に再認させることで「この曲聞いたことあるな」と感じさせようとします(アドルノか誰かが、こういうのをプラッキングと呼ぶ、と言っていた気がする)。ゲーム中で何度も聞く曲(RPGのフィールドや通常戦闘、格ゲーの持ちキャラのステージBGMなど)は、別に傑作でも何でもなくても記憶に残り続けたりします。

こうしたことはおそらく音楽に限らず、メッセージは常にある程度は量の側面を持っていて、ある程度は子供や動物の世界を保持し続けるのではないでしょうか。何度も我々の前に登場することによっていつの間にか我々にとって日常になってしまった売春斡旋広告トラックや、複数コマ・複数ページに同じ登場人物を何度も描くことで物語を展開するマンガ、日々繰り返される挨拶、その他諸々…には、良いものと悪いものが混在しており、それらは繰り返される中でメッセージの内容を変化させているのではなく、ただ私達の中に量として蓄積されることで、そうしたメッセージに対する私達の態度を変化させていきます。大人は結局子供にお菓子を買ってあげることもあります。

蓄積されるものとしてのメッセージの量的な次元は、それ自体としては子供や動物などの野蛮な?領域に属するものと言えるのでしょうが、見方を変えれば私達がどこまで行ってもある程度子供であり、動物であることを示唆しています。言葉の鳴き声的な側面を低俗と切り捨てず、反復される下らない言葉に目を向け、自分たちに関わるものとして考えていくことにも、何らかの価値があるように思われます。無理矢理っぽいけどキレイに終わったかな?

 

 

レジ打ちに関するサバイバーズ・ギルト

日常に関する問わず語りです。

 

誰かが酷いことをしているのを見て見ぬ振りした経験は誰しもあると思う。

最近、たまたまなのだが、コンビニやスーパーなどでレジ打ちをしているアルバイトの人が、客にいちゃもんをつけられたり、無駄話に付き合わされていたりするのを見かけることが多かった。レジ打ちバイトと客との間にはかなり大きな権力的な格差がある。ニーチェ先輩みたいなのはごく一部の変わり者であり、殆どの人は、罵声を浴びせてくる人間に対して反論しようなどという気合を、時給1000円も無いようなパートタイムジョブに対して持ち合わせてはいない。そうでなくとも、バイトはいかに酷い侮辱を受けようとも、僅かでも客を不快にさせてしまってはならないのであり、下手に反論してクレームなど入れられた日には、店長やエリマネとのさらなる不愉快な時間が待っている。バイトに罵声を浴びせるような人間は、同時にいかにも店にクレームを入れそうな人間でもあり、バイトたちはそのことをよく分かっている。かてて加えてたちが悪いのは、「連中」もまたそうした権力構造をよくよく把握していて、レジ打ちバイトのことを無料の精神的パンチングマシーンか何かだと思っている。

また、そうした現場に出くわした他の客にしたところで、バイトのことを守るような行動に出ることができる人間もまた非常に少ない。そもそも私にはバイトを守ってやる責任など一切無い。義憤を理由にして立ち上がったとして、「連中」が素直に引き下がってくれれば良いが、逆上してこちらに罵倒の矛先を向けてきたり、物理的に暴れ回る可能性だってある。そうした問題を片付けることができたとしても、店の責任者や警察官に状況を説明をする義務が発生するだろうし、そこには現場にいたバイトも同席することになるだろう。結果、私はバイトに追加の拘束時間をプレゼントすることになる。そうした事情で発生する拘束時間に時給が出るのかは、私には経験が無いから分からないが、出ない場合は私は間接的に人間を自分のために無償奉仕させたことになる。なんにせよ、私にとっての勝利は「クレーム客がたまたま、他の客から怒られたら素直に引き下がるヘタレだった」という条件が満たされた時に限られる。これは要するにギャンブルなのであり、日常をギャンブルだと捉えているアカギ的存在でもない限り、「連中」については無視をするのが賢い選択ということになってしまう。仮に私がアカギだったとしても、赤の他人であるバイトを私の独断でギャンブルの席に着かせて良いのかという問題もある。アカギはそんなこと気にしないだろうけど。

そんなわけで、近代社会に生きる私たちには「連中」に対して打てる手が少ない。こうした権力構造を利用して人間をパンチングマシーンにする行為の道徳的な低さは自明であり、「連中」は勝手に低くなっているのだから見下してやれば良いという見方もできるかもしれない。しかし、そうは言っても諦めがつかない気がするのもまた事実ではないか。私が目撃したイチャモン現場の中で一番酷かったのは、新人なのかレジ打ちに時間が掛かっているバイトに対して「日本人か〜?」などと言っていた中年男性に出くわしたものだ。権力的に不利な人間を侮辱するというのは、それだけで人間として地球の核まで落ち込むくらい低くなってしまうのに、そこに幼稚なナショナリズムと人種差別、日本人は計算ができるというステロタイプの再生産による間接的な他の日本人への侮辱まで入っており、低さの数え役満が地球を突き抜けてアルゼンチンあたりで顔を出す。何を言っているのか。また、自分が書店でレジ打ちをしているときにも、酔っぱらいが何故かさいとう・たかをの悪口を言いまくるのに付き合わされるという妙な経験をしたことがある。先のレジ打ちに時間がかかっていた人と比べれば格段に辛さの少ないものではあるが、それでも相槌を打っている間は地獄そのものだ。この仕打ちは明らかに自分の賃金に見合っていない。ホストやキャバ嬢が似たような仕事でそれなりの高給をもらうのに対し、こちらはほぼ最低賃金である。しかも下手な返しをすると怒り出す可能性さえあり、ここはキャバクラではないので黒服もいない。私はパラッパラッパーの譜面のように適切な言葉をタイミングよく出すように努める。「そうですね〜」「なるほど〜」「へ〜」。オッサンはパラッパラッパーと違ってイカした音を出してはくれないし、アドリブで「そうそうそうそうでそうでなるほど〜なるなるほなるへ〜へ〜そそそそ」みたいな声を出すことも許されない。やがて私は自分の言葉と物理学との区別がつかなくなり、何故こんなことをしているのか、この時間は何のために存在しているのか、目の前のこのアホは俺に内面とか精神があるということをちゃんと理解できているのだろうか、などなどの虚無なる思考の中にどこまでも落ちていき、自分が普段どうやって言葉を使っていたのか思い出せなくなる。こちらに反論や文句を言う権利があれば、相槌は同じでも気分はだいぶ違っていただろう。しかしバイトに求められるのはひたすら譜面を流れてくるノーツを正確に叩く機械になることだ。レジ打ちバイトに余計な話をするというのは、バイトの人格を機械へと貶め、精神を摩耗させる残虐な感情労働である。

ともかく、自分が直接関わっておらずとも、不道徳行為の現場に居合わせてしまうと、私は否応なく、抗議するか否かという選択を迫られる。小賢しい私はもちろん否を選択する。私は自分の用を済ませてそそくさと店を出る。私の背後でバイトはまだ理不尽に耐えている。私は自分の選択が間違っているとは思わないが、それでも焼け野原で助けを求めている全身大火傷の人を見捨てるような気持ちになり、心の中で「ごめんなさい、ごめんなさい」と繰り返す。その日はなんとなく嫌な気持ちが残り続ける。

このような目に遭うかどうかは、「連中」が怒り出すかどうかと同じく確率による。目の前に商品を出してきた客がどのような人間なのか、コモンな常識人なのかスーパーレア狂人なのか、レジ打ちたちは一回一回ガチャを引く。会計をする私たちにできることは、せめて自分だけは目の前の人間に負担をかけまいと努力することだけで、前や後に並んでいる人間の脳の善性について保証することも、その脳に善人回路を埋め込むこともできない。それに、自分だってレジ打ちになることもある。今でこそレジ打ちに辟易して別のバイトをしている私だが、さいとう・たかをアンチのオッサンの相手をしているときは確かにレジ打ちだったのであり、今日が自分がレジ打ちをしていない日であることには何の理由もない。今日がさいとう・たかをアンチのオッサンに出くわした日であっても良かったのであり、そうでないのはたまたまだ。

そして誰かが運悪くスーパーレアを引き当てて、「俺のことをナメてるんだろ」とか「馬鹿にするな」とか何とか喚き散らす「連中」の声が聞こえてきたとき、私の胸に去来するのは、ある種のサバイバーズ・ギルトである。私だけ今日はたまたまレジ打ちじゃなくてごめんなさい、私だけ運が良くてごめんなさい、私が貴方でなくてごめんなさい。人間同士のコミュニケーションに関する確率の戦場で、私はただ偶然にも弾に当たらなかっただけだ。

街を歩くのはそれだけで戦場に出るかのようだ。すれ違った人の内面を誰が知ろうか?隣を歩いている人のイヤホンの中で流れているのがヒトラーの演説ではないとは誰も保証しない。しかし私はどういうわけか生きていかなければならないと思い込んでいて、食べ物やらなんやらのために今日もスーパーやコンビニのレジで会計をして、周囲の人間ひとりひとりについてガチャを引く。

TOHOシネマズ新宿から出て5分くらいの間の経験についての日記、あるいは場所と繋がりについて

TOHOシネマズ新宿に『モアナと伝説の海』を観に行きました。存在とは動物的な快楽原則でも社会的な実用性でもなく、両者を掛け合わせた中で生まれてくる何らかの呼び声、ある種の信仰によって成立するのだ、みたいな話だったと思います。あと飛行石とか腐海とかジブリっぽかったですね。

まぁそれはいいとして、『モアナ』の話ではなくて『モアナ』を観に行った際の付随的な状況の話をします。

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『沈黙』観た:沈黙することの難しさ

映画の話です。

 

『沈黙』、角川シネマ新宿に見に行ったのですが、もう公開から2ヶ月くらい経ってるしチケット買わなくても大丈夫だろと思い、予約無しで行ったところ、見事に満席でした。地方出身者が東京で映画を見るとこういうことが起きます。

以下ネタバレを含みます。あと僕は原作未読です。

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死ぬの怖い(3)―寝るのって怖くないですか

死の話3です。

 

寝る方法

僕の記憶は5歳の誕生日を迎える辺りから始まるんですが、その頃は夜になると両親と僕とで川の字になって寝ていた記憶があります。ある日、僕は自分がそれまでどうやって寝ていたのかを忘れていることに気づきました。睡眠とは……?人間は能動的に寝ることができず、歩くとか手を動かすとかとは違って「俺の体、寝ろ!」という命令を下すことができません。にも関わらず4歳までの僕はなんの苦労もなく寝ていたわけですが、5歳を目前にしたある日、寝る方法を忘れてしまいました。隣で寝ている両親に「眠れない」と訴えても、「目をつむっていればそのうち眠れるよ」などと返されるばかりで、俺が知りたいのはそんなおまじないめいた心得じゃなくて具体的方法なんだよチクショウとと思った記憶があります。しかも両親は僕の心労も知らずにいとも簡単に眠りに就いている様子が伺われ、人間は不平等だという意識もあったような気がします。この時の夜が僕の一番古い記憶です。

そんな最初の夜から今まで、僕はついぞ寝る方法を知らないまま、夜になるたびになんとなく床について、いろいろ考え事をしているうちに気づいたら朝になっている、という生活を続けてきました。私の身体が一日一回、必ず私の意思を完全に離れて、しかも意識の方も完全にシャットダウンする、そんなことを死ぬまでのほぼ毎日において繰り返さなくてはならない、ということが自明な判断として私に与えられる訳ですが、これはとんでもないことです。週一とか月一ではなく毎日、しかも生命活動に欠かせない要素として、一日一回必ず意識を断たなくてはならない!相当怖いことだと思うんですが、このことを話して共感してくれた人は僕の人生で出会う中では一人もおらず、「お前疲れてるんだよ」という反応を返してくれる人が8割です。でも疲れを取るには寝なきゃいけないわけであって、この世は地獄か?

ちなみに残りの2割はただ微笑み返してくれます。

 

 睡眠は死の予行演習では?

これが何故死の話なのかというと、意識している状態から意識ゼロの状態に移行するというのは、我々が死ぬ時も似たようなことが起こると予想されるので、睡眠というのは一種の死の疑似体験というか、予行演習のようなものとして捉えられるのではないかと思うのです。無論、睡眠は何か事情がない限り、意識途絶の瞬間の後にほぼ確実に目覚めることが保証されている(それだって我々が全知でない限り100%の完全な保証ではないのですが)ので、完全なる電源オフからその後無限の時間に渡って意識ゼロ状態になる死とは違うわけですが、少なくとも我々が今際の際に自我を手放す瞬間というのはこんな感じなのかな、という、寝入り端ならぬ死に入り端みたいなものを想像する材料を我々に与えてくれます。

とはいえ、本当に意識が途絶える瞬間というのは我々には知覚できないので、せいぜい「あ〜俺今意識が薄れつつあるわ」的なことを感じることができるに留まるわけですが、生きている状態から死んでいる状態に移行する際もおそらく似たような感じなのではないかと思うので、寝入る瞬間を我々が恐れないように、死ぬ瞬間というのも我々にとっては恐れるべきものでないのだろうと考えられます。

では何が怖いかというと、「意識がとりあえず朦朧としつつも残っているものの、これからせいぜい数時間以内のごく近い未来に自分の意識は途絶えるらしい」という状態が怖いわけです(僕は床についてから完全に睡眠状態に入るまで1〜3時間ほどかかります)。これは死刑執行を待つソクラテスのような心情であり、僕の意志に関係なく、僕の体の、僕の魂?精神?みたいなものとは関係のない物質的な部分が、これから否応なしに僕の意識、いま寝床から天井を見上げたり寝返りをうって壁を見つめたり、外から聞こえてくる車の音を聞いている、あらゆる経験とそれを可能にするものの総合として存在している「僕」を、一時的とはいえ消し去る!やばい!

我々は普段自分の肉体や精神を己の意思によって操作していると考えていますが、一方で毎日起こるイベントであるこの睡眠においては、自分の精神は己の意思とは関係なく不随意に、にも関わらず自分の身体の働きによって操作されます。こんなことが毎日起きているのに、何故我々は我々の心身を自分で操作しているなどと考えられようか?睡眠は私の自己同一性を脅かします。

しかもこの恐怖体験は今日明日に限った話ではなく、これからほぼ毎日繰り返されるのです。完全に拷問です。何故生まれてきてしまったのか。生とは苦では?

しかも、睡眠はかなりの高確率で目覚めを保証してくれていますが、いずれ来る死の時には、なんと人間は永遠の、無限長の時において目覚めないらしいではないですか。無限って何だよ。そして、客観的には無限の時間死んでいる僕は、当然意識どころか脳も焼かれたり腐ったりして消滅するので、主観的には(死んでいるのに主観というのも変ですが)死んだ瞬間から全く時間的な経験は無く、一切の時間が存在しない状態に放り出されることになります。時間がゼロの状態が無限に続くと言い換えてもいいでしょうか。言い換えるとは言っても、これは言葉として成立しているのでしょうか。ゼロが無限?なんなんですかそれは。やめてください。

そして、たぶん僕が死ぬときは、僕が普段寝ているときとよく似た状況、つまりベッドやら布団やらの上に寝転んで意識朦朧としているのではないかと思われるわけですが、その予想される未来の今際の時を、普段の睡眠時の僕の状況は、僕に連想させずにはいません。なので僕は寝る前にかなりの頻度で自分の死について、自分の身体によって半ば無理矢理に考えさせられます。ああ俺は死ぬときのために毎日練習させられているんだなと、悲観的な気持ちになります。なりませんか?なれ!!

 

怖い

怖いです。

 

ナイチンゲール補遺:衛宮士郎の葛藤

前回記事でちょっと足りなかったかなと思う部分があったので補足しておきます。前回はFGOについてやや非難めいたことを書きましたが、僕としてはFateシリーズ自体は「自分に都合の良い物語を語る」ことを肯定するというよりもむしろそのことについての葛藤から始まっていると考えており、理想の実現に向けて都合の悪いものを排除することに対しての罪悪感に常に苛まれ続けていた物語であったと思います。

ぶっちゃけ僕がアレコレ言うよりも東浩紀著『ゲーム的リアリズムの誕生』を読んで貰った方が良いとも思いますが、ナイチンゲールを巡るアレコレがFateシリーズの伝えてきたものに対してどのような位置に置かれるのかは書いておく意味は少しはあるかなと思います。

 

衛宮士郎の葛藤

Fateシリーズが一番最初に消費者の目に触れたのは2004年発表の『Fate/Stay Night』であり、少年・衛宮士郎を主人公とする一連の物語がその始原にあります(正確には『Prototype』がありますが、「消費者の目に触れた」最初という意味で捉えてください)。『Ground Order』まで連なるFateシリーズの出発点として、まず衛宮士郎がどのような登場人物であったのかを考えてみましょう。

彼は一言で言うなら二次創作の体現です。彼の人生は、彼が住んでいる冬木市の全体が焼け野原となった大災害から始まります。彼はこの災害の唯一の生き残りであり、その「生き残ってしまった」負い目から、自分の人生を他者の人生の下にあるものと考え、自分は人の役に立たねばならない、困っている人は助けなければならないという強迫観念めいた義務感に囚われることとなります。彼は自身を、本来は災害によって死ぬ定めであったのに、何故か生き残った、という反実仮想的な形でしか捉えられません。それは、原典たる公式的な物語(災害で死ぬ定め)に対して、「もしこうだったら」という想像力によって非公式な形(何故か生き残った)で存在する、二次創作によく似ています。

また、生き残った彼は義父である衛宮切嗣から「正義の味方になる」という夢を引き継ぎ、成長してからもその目標に従って努力を重ねていきます。言うまでもなくこの夢は切嗣からの借り物であり、士郎が如何にこの夢に殉じたとしても所詮は暖簾分けであって、本家ではありません。

極めつけは彼の魔術師としての能力である「投影」です(言い忘れていましたが彼は魔術の使い手であり、Fateシリーズは魔法とか霊とかが出て来る話です)。彼は史上に存在した様々な名剣・魔剣の類をコピーし、使いこなすことができます。コピーです。彼に彼だけの本物は存在しません。その生まれ育ちから能力に至るまで、彼は何もかもが誰かの二次創作です。そんな彼が、女性のアーサー王というこれまた反実仮想的な存在と出会うのは、ある意味で必然だったのでしょう。

『Stay Night』は、ものすごくザックリと言えば、そんな衛宮士郎が二次創作である自分を受け入れ、肯定し、成長する話です。その成長は「自分の都合の良い物語を語ることは許されるのか?」という問いに貫かれています。たとえば、彼は物語のある時点で、いくつもの有り得る未来のうちのひとつから来た自分(以下、「エミヤ」)と対面します。エミヤは、これまたザックリとしか説明しませんが、要するに正義の味方になることに失敗し、故に未だ理想を抱いている過去の衛宮士郎を憎悪しています。

衛宮士郎が成長するには、エミヤという自分自身の可能性の一つを否定し、エミヤとは違う自分になるしかありません。それは取りも直さず、自分にとって都合の悪い物語を拒否し、都合の良い物語だけを選択するということです。それは災害の中で死んでいった他の人々を押し出して、自分だけが生き残ることとパラレルです。それは自分が王座についたが故に滅んでしまったブリテン王国を拒否し、別の繁栄したブリテン王国を願うことと等価です。

故に衛宮士郎は葛藤します。その果てにどのような結論を彼が見出したのかは各自確認していただくとして、ここで私が言いたいのは要するに、Fateシリーズの原点にはこのような、「自分の都合の良い物語を語ることは許されるのか」という葛藤が刻まれていることを覚えて欲しいということです。

 

「ループもの」のトレンドの変化

前回触れた『君の名は。』に関連させて言うなら、このような切り捨てられていく物語=無かったことになる別の平行世界に対する愛惜・悔悟の念というのは、『君の名は。』が属するところである所謂「ループもの」や、複数ルートの攻略をゲームシステムとして殆どの場合持っている美少女ゲームに常に主題として見出されてきたものです。key作品などの古典的な例については『ゲーム的リアリズムの誕生』を読んだ方が分かりやすいので省きますが、最近であれば『シュタインズゲート』や『魔法少女まどか☆マギカ』などの名前を挙げればピンとくるのではないでしょうか。

こうした主題と関係していた以上、「ループもの」や美少女ゲームは、もともとはナショナリズムやポスト真実のようなものとは対抗するジャンルであった筈です。しかし『君の名は。』やナイチンゲールの逸話をめぐるアレコレはそうした記憶をあっさり忘れてしまっています。死んでいった世界の三葉や優しかったかもしれないナイチンゲールを無かったことにする時、衛宮士郎を通じて我々が通過したはずの葛藤もまた無かったことにされています。

私がポスト真実だ何だと言ったのは、『君の名は。』やそれに類するコンテンツ全体に対してではなくて、こうしたトレンドの変化、衛宮士郎的葛藤から『君の名は。』的エンタテインメントへと消費者が求めるものが変化していることに対してでした。

この辺りについてツイッターで質問して下さった方があり、もしかしたら前回記事だけでは不足があったかもしれないと考えたので、補遺として書き置いておきます。

 

しかしなんというか、衛宮士郎から始まっているFateシリーズにおいて、先のナイチンゲール云々が無邪気に史実呼ばわりされるというのは皮肉としか言いようがありません。『Stay Night』まで遡らなくてもちょっと前に『Zero』で切嗣が正義の味方であるために大量に殺さなくてはならなかった苦しみが描かれて、言うなれば士郎の葛藤が再演されていたわけですが、やっぱアニメでおもしろ顔しちゃったのがよくなかったのか?