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死・マンガ表現・ツイッター

死ぬの怖くないですか(2)―「何か」の声

死の話2です。

 

ウラジミール・ジャンケレヴィッチというフランスの哲学者がいまして、名前がロシアっぽいのは両親がロシア帝国からの移民だからなんですが、この人は『死』というそのものズバリな本を書いています。超いい本なので皆さん読んで下さい。8000円くらいするので僕は持っておらず、図書館で断続的に借りて読みました。なので現物が今手元になく、今後この本の内容に触れるときは出典を明記できないうろ覚えであることを予めご容赦ください。

で、この『死』という本において、ジャンケレヴィッチは人間が自分の死を自覚する過程について述べています。それによると、人間は「死ぬ」ということを、本質的には知ることができない。どういうことかというと、人間はまず自分以外の親類や友人、あるいは報道される他者などの死に触れることで「死」というものを知ります。いろいろな形でいろいろな人の死に触れます。そのうちに、どうやら人間というものは皆例外なく死ぬらしいということがなんとなく分かってきます。しかし、それでもなんとなく、自分だけは死なないんじゃないかな、自分が死ぬ前に不老不死の薬とかが発明されるかもしれないな、という希望を心の何処かに抱き続けます。その人にとっての「死」は、「少なくとも知っている中に死なない人はいない」という、蓋然性の域を出ないからです。かくしてそんなことはなく、自分は年を取り、身体の自由が徐々に制限され、見聞きする死もどんどん身近さを増していく。どうやら自分は死を免れないらしいということが分かってくる。そしていよいよ死を覚悟する。しかし、それでもその人は死を知ることはない。何故なら、死を知るという事は要するに死ぬということであり、死を知った瞬間にはもうその知は消滅しているからです。

こうした意味で、人間は「死ぬ」ということを本当の意味で知ることはないし、言い方を変えれば、人間は自分の死を永遠に延期し続けることができる。延期が不可能になったときには、その人は既にあらゆる認識を止めているからです。

結局、人間が死について知ることができるのは、自分以外の人間の死に触れることで得られるある種の憶測のみです。しかし、これも死についての直接の知識ではない。死を直接知った人は既に「死人に口なし」になっているからです。我々は死について知ろうとする時、その核の部分に触れることは決してできず、いわば死の周辺をウロウロすることしかできません。核に触れることができた時、その人は死んでいます。

なので、「自分が死ぬ」ということについても、老いや病気などの死に近い事柄の当事者になっていない限り、人間は先に言ったようになんとなく実感の持てない、「ワンチャン俺だけは死なないんじゃね」的な希望を常に残し続ける形でしか、基本的には捉えることができないということになります。

 

しかし一方で、いろいろ読んでいると、老いや病気とは関係ない形で「自分は死ぬ」ということを疑い得ぬ事実として認識した人も割りといることが分かります。たとえば、堀江貴文は6歳の時に「自分は死ぬ」事に気づき、そのことを考えないようにするために自分を忙しくしていると言います(AERA 2011年6月6日号)。他には、同じく6歳で自分の死ぬ運命に気づき、その恐怖を抱えて哲学者となった中島義道が有名でしょうか。

自分の死について経験的に知ることはできない、にも関わらず「自分が死ぬ」ということについて疑い得ぬ事実として認識する人がいる、これは不思議な事です。自分の死は、数学の定理のように経験的な形で試験してみることができない(試験してみる行為は一般に「自殺」と呼ばれている)。人は経験できない事実について何故、心底恐怖することができるのか?私は「自分は死ぬ」に囚われて不眠になった時、こうした問いを虚空に向かって恨めしく繰り返していました。

 

経験できないことを疑いないものとして認識するのは、比喩的な言い方ではありますが、神とか精霊みたいなものが私に対してそのような声をかけるからであるように感じられます。これはあくまで比喩なので、雲の上に居る髭モジャ爺さん(だいたい白人)が私に電波通信で呼びかけたとかそういうことではなく、私にとって外部的なものとしか思えない情報が、突然私の頭のなかに湧いてきたような感覚です。外部的とは言っても、「自分は死ぬ」という情報は私にとって既知のものだったので、私にとって新しいのは「自分は死ぬ」ということではなく、その情報を私にとって外部的、しかも疑いようなく正しいことしか言わない何者かが外部から伝えてきた、と感じさせる「何か」です。人間の脳はこの「何か」を、どういう条件下でかは知りませんが自身のうちに発生させるようです。発生させるものに敢えて名前をつけるとしたら、神とか精霊とかの超自然的存在の名で呼ぶしかありません。似たような考え方としては、ホメロス叙事詩などに時折出てくる「アテナがオデュッセウスに〜〜という考えを起こさせたので、そのようになった」みたいな表現は、これに近いものを感じさせます。

ソクラテスのダイモーンなどもそうだと思いますが、死の問題に限らず人間は時たまこのような「何か」を自身のうちに発生させることがあるようです。我々の思考を強制的に方向づけるこの「何か」は何なのか。そのことについて考えるのが、死そのものについて知ることにはならずとも、死の恐怖について考えることになるのではないかと思います。

東方鈴奈庵第43話における八雲紫の胡散臭い空間

東方の話です。

鈴奈庵と茨歌仙がほぼ同時に発売され、どちらも表紙カバーに紫がいたので少し驚きました。なにせ彼女は最近になってめっきり露出が少なく、三月精儚月抄の頃のような黒幕ポジションはマミゾウに奪われつつあったので、これはいよいよ新旧腹黒老婆抗争が始まるのかと思いましたが、別にそんなことはありませんでした。

(以下、鈴奈庵6巻ネタバレあり)

 

 

 

 

で、その紫ですが、鈴奈庵6巻では43話「人妖百物語」後編に、怪談話をしにくる人妖たちのうちの一人として登場します。博麗神社の境内に組まれた櫓の上で行われる百物語ですが、しかし紫は空間的なポジションにおいて非常に特殊な現れ方をしています。

 

紫は櫓の上にいない

まず、これは櫓の上を俯瞰から描いたコマです。


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(鈴奈庵6巻96頁。)
ご覧の通り鈴奈庵のレギュラー連中に混じって見覚えのある影もありますが、紫はこの中にはいません。櫓の全体を俯瞰するショットはこれを含めて3つあるのですが、そのどれにも紫は存在しません。

当初はレミリアの後ろにいる女性が紫かなと思いましたが(紫の肩越しに魔理沙・黒髪の少女・小鈴・阿求が映っているショットのコマが108頁にあり、紫はこの4人の対角線上に居ると思われた)、この女性はZUN帽を被っていませんし、後のコマで正面から顔が写った際にほうれい線の走った、紫とは別の老婆であることが分かります。紫はかれこれ2000年くらいアンチエイジングに余念がないのでほうれい線はありえません。というかいくら薄暗いからって悪魔の主従の背後に居座れるこの老婆は何者なんだよ


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(同上115頁。周囲に異変が起こっているのにレミリアの背後で不敵な笑みを保つ老婆)


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(同上108頁。紫の肩越しのショット。黒髪少女はなかなか良い位置に座っており、小鈴か魔理沙の知り合いか?)

 

そもそも、百物語の主な話者であるマミゾウと紫を比較すると、他の登場人物との位置関係が分かるようになっているコマが多いマミゾウに対して、紫はバストショットばかりで位置関係がわかりにくいコマにばかり登場しているのも気になります。唯一他キャラと一緒に映っている前述の肩越しショットのコマも、俯瞰コマから考えてみればレミリア・咲夜が座っているはずの位置か、その前方の蝋燭が密集しているはずの場所にいるような描写がされています。


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(同上103頁。吹き出しにカブられる黒い口髭の男。マミゾウはこの男の向かって左隣に座っている)

 

単に人物の配置を劇作に合わせて融通してるんじゃないかと思われるかもしれませんが、一方で紫以外の人物は各コマにおいてかなり厳密に配置の一貫性が守られています。紫だけが妙に胡散臭い空間に存在しており、おそらくですがこれは制作側が故意に行った演出ではないかと思われます。


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(同上99頁。小鈴視点のコマ。俯瞰のコマと照らし合わせると、各キャラの座り位置と無矛盾であることが分かるし、黒口髭の男が妖夢の吹き出しによってまたもやカブられていることも分かる。更に咲夜・レミリアを画面から隠すように若干身を乗り出している新たな白い口髭の男。幻想郷の男の間では口髭が流行っているのか?)

 

紫は作品内世界と現実世界の境界にいる?

思うに、紫のいる空間は作品内世界でありながら同時にそうではないような、強いて言えば鈴奈庵というマンガを物質的に構成している紙の表面、紙面上としか言いようのない空間です。理屈の上では櫓の上のどこにもいないはずの紫は、紙面上に視覚イメージとして他のコマと共存しているということによって、作品世界内の空間的な矛盾を無視してその場に存在することになっています。すなわち、紫がいるのは作品世界のレベルと表現のレベルの境界であり、それは言うなれば、自分が紙の表面に付着したインクの染みであることに自己言及するような存在の仕方です。これは茨歌仙7巻の中でも読み取れることで、例えば黒ベタ塗りの中から紫の腕だけがにょっきり伸びてくる描写は、彼女が紙面に付着した黒インクの延長上に存在しているかのようです。


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(茨歌仙7巻80頁。頁の裁ち切り右上隅から吹き出しが出ているのも「書籍の外側からやってきた」感がある。) 

 

紫は境界を操る能力の持ち主であり、求聞史紀によると絵や物語の中にも入り込むことができるらしい。鈴奈庵43話における紫は、作品内世界と読者のいる現実世界とを隔てる、紙面という無限小の薄さの中に座っています。なんとなく三月精の「2つの世界」を思い出しますね。


無論、話している間だけコマの外側でスキマの中から現れて、話し終わったらさっさと帰っていっただけの可能性もありますが、もしかしたら紫は我々の居る現実世界から鈴奈庵の紙面に侵入しているのか、あるいは幻想郷から見ると我々のいる世界も絵か物語として見えていて、紫が幻想郷側からこちら側へと戯れにはみ出してきたのか、などと妄想してみると面白い。いきなり出てきて櫓の上の半数の人間には分からないスキマネタを話し始めるのも、どうせ東方ファンであろう読者への目配せであるようにも思える。

 

虚構と現実

そもそも鈴奈庵全体、あるいは深秘録あたりからの神主の表現やおまけテキストなどにおけるSNSの問題への言及を鑑みると、最近の東方Projectには、虚構と現実の境界、リアルとフィクションの区別を寓話的に問うような意識が共通しているように思います。鈴奈庵6巻で言えば冒頭の38・39話「情報の覇者は萃か散か」はまさしくそうした主題の話です。

深秘録で登場した菫子にしたって、外界で夢を見ている間は幻想郷内にいるという設定は明らかに荘子の「胡蝶の夢」を参照していますし、胡蝶の夢とは「夢と現実ってどっちが本物なのか分からないよね」という話であって、彼女の設定自体が虚と実の境界を問うものになっています。

宇佐見菫子という名前も蓮子との血の繋がりを示すとともに「菫色(薄い紫)」への言及を含んでいるように思いますし、菫子自体にも何かしら境界に関わる要素が含意されている?もしかしたら今後紫との繋がりが示されるかもしれません。

菫子の設定については、虚実の境界に関連した神主の東方ファンに対する痛烈な皮肉が込められているような気がしますが、それはまた今度。

 

茨華仙での紫はなにやら企んでいるらしく、急速に黒幕っぽい存在感を増しました。一方のマミゾウはハラペコ鬼に一杯食わされた挙句クッソ寒いダジャレをかましてしまうなど、ここにきて失点が目立ちます。果たしてこのまま古参腹黒の紫が再び黒幕ポジションに返り咲くのか、ここから新参腹黒マミゾウが巻き返すのか、新旧老婆抗争の続く中、レミリアの背後で謎の老婆が静かに微笑んでいる……

死ぬの怖くないですか

 皆さん死ぬの怖かったり怖くなかったりすると思うんですけど、私は「自分がいつか必ず死ぬという事実」がもうそれこそ死ぬほど怖くて、自分が死ぬ時の光景を想像するのが止まらなくなって3ヶ月ほど不眠状態になったことがあります。

 

 ところで今私は「自分が死ぬ時の光景」と言いましたが、この言葉を聞いて皆さんどのような光景を思い浮かべますか。病院のベッドで家族に見守られていますか。事故死とか自殺とかですか。その光景とは、自分が死んでいく姿を俯瞰とか真横とかから見ているショットですか。それとも自分が見つめている病院なり空なりの、自分の視界ですか。私が不眠になった時に囚われていたのは、自分が死ぬ時に自分が見聞きしている光景、自分の死を自分の内側から見ている状態の想像でした。自分の意識、あるいはそこに現れている諸々の現象が、徐々にあるいは電気を消すようにパチンと消えて、そして消えたことを認識し覚えている私も消えて、それで、その後どうなるのか?

 こうした思考が永遠と続き、夜の闇が自分の意識の消滅を隠喩しているかのようで、夜暗くなると眠くなるどころか意識がハッキリし始めるのでした。恐怖している間は全身の皮膚が風呂に投入されたバブのように泡立っているかのような感覚があり、自分の皮膚を感じているのは皮膚ではなくてあくまで脳なんだなということを実感したときでもありました。

 我々が死ぬ際、死後の世界なるものは存在しないと仮定して、我々は生まれる前と同じ虚無に、今度は生み出されるのではなく吸い込まれていくような感じになると思うんですが、当然感じる疑問として、我々がこれまで積み重ねてきた記憶とか、あるいは自分が今死んでいくということを感じている「この私」、他の人格たちが私と同じく持っていると思われる匿名的・同質的な「私」ではなく、究極的に私的なものして言及される「ここにいて、見たり聞いたり感じたりしている、この私」はどこに行くのかというものがあると思います。どこに行くかと言えば、そもそもそんなことを問うこと事態にあまり意味はなく、お前は自分が生まれる前に何処にいたのかと訊くのかということになってしまいますし、これまで私を構成していた物質的な条件がバラバラになり、端的に言えば消滅するということなのだと思います。

 こうしたことを考える際、自分が生まれてから死ぬまでに何を為すかとか、何を遺していくかなどは、自分がこれから死んでいくということに対して何の慰めにもなりません。問題なのは自分がこの世で何かを為したとか、死ぬことで何が無駄になるのかではなく、その「生きている間に何かを為したり無駄にしたりすること」を可能にしていた条件であるところの、何物にも先立つ超越論的なものとしての「この私」が消滅してしまうのだ、ということに対する恐怖です。これは全く感情的なものです。生まれたことの意味とか喜びとかの損得は、全てそれらに先立つ条件としての「この私」の後にやってくるものであって、「この私」が消滅するということに損得勘定が介入する余地はありません。私が問題にしているものは損得勘定よりも前にあるものだからです。私は自分の財産とか家族との繋がりとか、あるいは意識とか魂を失うのが惜しいから死ぬのが怖いのではなく、ただ端的に怖いのです。おそらくこの恐怖はあらゆる概念的思考の及ばぬ領域にあり、だから私はずっと答えの出ない思考を繰り返していたので、不眠でした。

 恐怖からとりあえず今脱出できているのは、「死ぬことの恐怖から脱出するには死ぬしか無い」という、根本的には何の解決にもなっていない答えを皮肉交じりに受け入れて、思考を一旦保留することに成功したからです。もちろんこれは保留でしかなく、たぶんそのうちまたあの恐怖が私を襲うんだと思います。

 

 人間が不安を抱えたときはどうすればいいでしょう。そう、誰かに相談するのが良いですね。私も友人や家族などに死の恐怖について相談しました。死ぬのが怖いのは皆だいたい同じらしく、「分からんでもない」というような反応が返ってきますが、しかし皆が口にするのは「死ぬ時痛いのは嫌だよね」とか、「友達や家族に会えなくなるのは嫌だよね」とか、「だからこそ生きているうちに悔いの無いようにしたいよね」といったような、現世的な関心に依拠した恐怖ばかりです。そりゃそういうのも怖いですし、私も痛かったり両親が死んだりしたら泣きますけど、でも僕が怖いのはそうした諸々のことを私が怖がることができるようにしている条件である、いま何かについて意識しているところの「この私」が、永久に消滅するときがどうやらいつか来るらしい、ということであって、生きてる間に自分が死ぬ以外の何が起きようが最悪諦めがつく。もしかしたら、「この私」というのはどこまでも私的なものなので、そもそも他者に本当の意味で理解してもらうのは不可能なのかもしれません。私はガッカリしました。

 しかし、だからといって私が恐怖しているところのものを彼らに上手に説明して、首尾よく彼らに理解してもらえたとして、そうしてしまったら彼らもまた私と同じ恐怖に囚われることになるかもしれませんし、私は自分の味わっている地獄を他人にも味わってほしくないので、「うんうんそうなんだよね痛いの怖いんだよ」というように相手に「私はあなたに相談を受けてもらったよありがとう」的な感じの応対をして、結局何も変わらないまま終わります。

 

 でもやっぱり誰かに聞いてほしいので、僕とあまり関係ない匿名的なあなたに投げかけるものとして、こうして書いてみました。