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コロンバス旅行記7:デカくない編

ライブラリの利用時間は最大で1日4時間。分かっていたことだが大したことはできない。部屋に戻ると途端にスイッチが切れて作業できなくなるたちなので別の作業場所を見つけないといけないが、シャイ過ぎてちょっとマクドナルドに入るのも一苦労という。

マクドナルドといえば日本にいた頃はアメリカのファストフードは全部めちゃでかいと思いこんでいて、クォーターパウンダーセットなんか頼めばそれで1日腹が保つと思っていたが、実際来てみると日本と全然変わらない。円安を鑑みると経済的には縮んでいるとすら言える。クォーターパウンダー久しぶりに食べたんで日本でのサイズ感を忘れているけど。まぁもしかしたら州単位とかで事情が異なるのかもしれない。

オッパーの伝記的資料とりあえず一周。同時代の言説やオッパー自身がカートゥーン作家(コミック作家ではなく)としてのオッパーをどう位置づけていたのかなんとなくわかってきた。暫定的な整理だが、先行世代のネストやダヴェンポートが真実の告発という理念において活動していたのに対し、オッパーは影響力の行使を重視していたようだ。前者は特定個人をカリカチュアライズすることでその人物の隠された真実を暴き出す。だからしばしば攻撃的だ。対して後者はコメディであり、だからこそ教育の程度にかかわらず広い範囲にリーチすることができる。影響力という観点から見るなら、まず興味をもたせることから始めなければならないのだから、先行世代のように攻撃的な態度では損である、みたいなことがインタビューで言われている。なんか今っぽい話だ。彼はどうやら特定個人にはあまり興味がなく、トラストとか企業とかの抽象的存在をキャラ化しようとしていた。そうしたキャラクター(というよりコンセプチュアライゼーション?)はシステムの動きとか利害関心といった純粋な力の表象であり、一般市民というこれまた抽象的存在をスラップスティックなかたちで玩弄する。玩弄する動きはナンセンスで、特定の誰かの意志というよりは機械的システムのように振る舞う。ガニングや三輪さんが言うところの狂った機械の論理だ。オッパーもまたある種の真実を提示するのだが、それは個人の秘密ではなく社会システムが狂ってしまっているということ自体だ。現実の出来事ではなく、トラストがどういう存在なのかということについての戯画を手を変え品を変え反復し続ける。晩年の発言だが、オッパーはカートゥーンにとって特定個人を描くことは実は上策ではないと考えていたようだ。時の人は時とともに現れては消えていくが、抽象概念は不変であり、むしろそこにこそ真実があるという考え方になる。カリカチュア・カントリー云々という1902年だったかのエッセイも、こうした風刺画的な側面から見ると立体的になる気がする。

明日からはアウトコールトのファイルに取り掛かるが、見た感じオッパーよりボリューミーだ。アウトコールトはオッパーと同年代(いっこ上)だが、どうも考え方としてはネストのようなオッパーより上の世代に近い気がする。彼は自分のキャラクターにモデルがいることを強調したがる。イエローキッドは自分がロウアーイーストサイドで会った子どもだとか、バスターとメアリーは自分の子どもがモデルだとか。現実を参照することでリアリティを、という発想なのだろう。同時に子どもたちの姿にはある種の普遍的概念が体現されているとも言っており、そう考える点ではオッパーと似てなくもないが、あくまで現実の人間から出発する点で決定的に異なる。

シリアルがなくなったので買いに行ったらファミリーサイズのものしかなかった。普通サイズが売り切れということではなく最初からファミリーサイズしかない商品ばっかということ。迷ってたら学生らしき人が決め打ちにしているらしいシリアルをガッと掴んで去っていったので、俺も同じやつを試してみることにする。

冷凍ピザを夕飯にしようと思って開けてみたら想像の2倍くらい大きかった。半分に切って焼く。いっしょにつまもうと思ったドリトスも日本の3倍くらいのバッグしかなかった。クォーターパウンダーは普通だったのに。

ピザはオーブンで焼けと書いてあるがオーブンの使い方がよくわからない。シットコムとかによく出てくるコンロの下についてるデカいアレだ。やきもきしてたら同居人が帰ってきた。言ってなかったけどこの家には3人住んでて、俺とタイ人ともうひとりだ。そのもうひとりである。もうひとり氏とはこれまで挨拶くらいで喋る機会がなかったのだが、今日はオーブンの使い方をテキパキ教えてくれた。あとすごい量のミルクをストックしている。なんとなく人となりが掴めて少し安心。

明日はライブラリで話した先生とコーヒーに行くことになっている。先生の書籍をできるだけ読んでいこうと思ったけどピザ食べたら眠くなったのでイントロだけで断念……。