装置

死・マンガ表現・ツイッター

視界が虹色に歪んだのでMRIに行った

日記。

 

生きてるとたまに伏線回収みたいなことが起こる。今回の伏線は、某ソシャゲのキャラクターだった。そのキャラクターには「頭痛持ち」という悪影響のあるステータスが設定されていたのだが、昨日だか一昨日だかのバージョンアップによって、イベントをこなすと「頭痛持ち」が良い効果を持った別のステータスへと変化するようになったらしい。SNSでその情報を見かけたのが昨日、2月19日のことだった。さっき、というのは2月20日のことだが、この伏線が回収された。

 

ひとり暮らしの大学院生である僕は勉強をしなければずっと暇人状態だ。今日は正午ごろに起き出して午後から勉強会に行く予定だった。しかし、昼食を終えて一段落していると、何か目に違和感を感じた。よく見ると、視界の左端に、太陽を直接見たときに見える焼付きみたいなアレがあった。何か眩しいものを見たっけなと思っていると、その焼付きがどんどん広がっていった。広がり方は、喩えるなら水面に油を一滴垂らしたようなといった感じで、広がっていく輪のフチは油膜のように虹色に歪んでいて、輪の中心部分は普通に見えるのだが、輪のフチで切り取られた部分がその外側の視界と上手く整合してくれず、録画失敗したVHSの歪みのような感じでちぐはぐになっていた。

インターネット時代の人間が不気味な症状に出会ったときにすることは、スマホを取って「視界 歪む」とかそういう感じのキーワードでググりまくることだ。調べていくうちに、「閃輝暗点」というものが今の自分の視界の記述としてよく当てはまるように思われた。

 

閃輝暗点 - Wikipedia

 

どうやら偏頭痛の予兆となる症状らしい。まだ痛みは感じなかったが、念の為常備してある鎮痛剤を飲んだ。

どうも眼科よりは神経内科にかかるのが良いものらしいことがわかったので、即座に近くの神経内科に予約を取り(このとき視界の油膜が視界のド真ん中に差し掛かっていてスマホの操作が難しかった)、勉強会にはキャンセルの連絡を入れて、予約の時間になるまでは仮眠を取ることにした。とはいえさっき起きたばかりなので、kindleで昨日買った『イデオロギーの崇高な対象』を音声読み上げさせたのを聞きながら目をつむるだけにした。

kindle音声のジジェクフロイトマルクスの共通点について話し始めた頃、頭痛が始まった。鎮痛剤のお蔭でそこまで苦しくはなかったが、それでも頭の右側がジクジクと痛くなった。同時にジジェクが言うには、夢や商品が隠喩しているものではなく、夢や商品がいかにして何かを表象するのかについて考えろとのことだった。自分の視界の歪みがどのようにして起こっているのかは自分には分からなかった。後で神経内科の先生に聞いたことだが、この症状が起こるメカニズムはまだ判明していないらしかった。

 

神経内科の待合室には老夫婦が3組ほどいて、僕は彼らが全員済んだ後に診断されるらしかった。老夫婦たちは、全員がまるでルールで決められているかのように、会計時に受付の女性に心底どうでもいい世間話をしていた。この世間話への応対によって発生する感情労働は彼女たちの給料に反映されず、世間話が増えれば増えるほど、マルクスが搾取率と呼んでいるものが上がっていくのだなと僕は思った。老夫婦の会話という表象が隠喩しているものを読み取ることを、ジジェクは批判するのだろうか?

神経内科の窓の外には雑木林が広がっていた。老夫婦を見るのに飽きて窓の外をぼおっと見ていると、雑木林の外に、たぶんセキセイインコだと思うが、全身緑色の鳥が何匹か飛んでいるのが見えた。

今になって冷静に考えてみれば、飼われていたセキセイインコが野生化するのは別に有り得ないことではないのだが、自分の脳神経に疑いと不安を持っていた待合室の僕は、果たして日本に野生のセキセイインコがいるのかどうか不安になり、自分の視覚が不安になってきた。不安を紛らわすために、今日一緒に勉強会をする予定だった後輩にセキセイインコのことを報告すると、アルトーみたいだと言われた。アルトーのことはよく知らない。

診察してくれた先生はとりあえず好印象で、僕の腕とか膝を叩いたりして反射を確かめる手付きには慣れを感じさせた。僕の専門を聞いてきたので、どの程度詳しく教えればいいのか一瞬考えてから、「20世紀初頭のアメリカ新聞マンガです」と答えてから、答えが詳しすぎてキモいなと自分が嫌になった。

先生の診断はグーグルと同じく閃輝暗点であろうとのことで、まず大丈夫だが稀に脳梗塞や腫瘍が見つかることがあるので、MRIに行けとのことだった。今日中に受けられるMRIの施設を予約してもらった。

 

診断料は思ったよりも高く、しかもMRIの費用はまた別途かかるとのことだった。MRIを一回受けるのにかかる費用をググってみると、今月の僕は食費を賄えなくなったことがわかった。悩んだ挙げ句、実家に金銭援助を頼むことにした。

MRIを受ける前に一旦家に帰って夕飯を食べている間、僕の精神状態は最悪だった。僕は現状、財政を完全に実家に依存しており、勉強のためにバイトは最小限にしなければならない。そうして毎月をほぼトントンで生きている。そうした生活は、今回のようなイレギュラーな事態が起こると途端に金銭的に破綻する。もし、わざわざ東京くんだりまで来て大学院生にならずに、地元で就職し安定収入を得ていれば、MRI一回で生活が破綻したりはしなかっただろう。もちろんその時は勉学は諦めることとなる。生きることと自己実現とはどちらが先に来るのだろう。自己実現とは生命あってのことだが、生きることのために自己実現を諦めたとして、その場合の自分が毎日をどのような精神状態で過ごしているのか、想像するだけで恐ろしいように思われた。

一応僕は国立大学の博士課程学生であり、日本以外の先進国では国立大学の博士課程には授業料が発生せず、金銭的支援もある程度受けられるのが普通らしいが、日本ではそのどちらも実現していない。僕が博士課程をやっていられるのは、偶然にも実家が太いからに他ならない。こうしたことは日本の景気の悪さを表していると考えるのが自然だと思うが(表しているとは何だ?とジジェクが言う)、実家に帰るたびに父親は「日本が不景気だと言っている連中の陰謀に気をつけろ」的な話をしてくる。いい年こいて父親に養われている僕はそれに対し強いて反論するようなことはしないし、仕送りを増やしてくれなどとは言いにくい。父親からすれば、「日本の景気は良い」のだから、バイトをそれなりにすれば金銭的には困らないはずで、にもかかわらず僕が困っているのは僕が頑張っていないからだ、ということになるのだ。僕の自己実現の可否は実家の機嫌一つで変化する。それが嫌なら勉学なんかやめて働けば良いのだし、両親にはそのように言う権利があることになっている。生きることは自己実現よりも優先されるし、両親がそう考えるのは彼らが僕を愛している証拠であると言える。両親は僕に生きてほしいのだ。僕はそうした考えに反論することはできるが、余計なことを言って両親の機嫌が悪くなれば、割りを食うのは自分だ。

 

MRIの施設は妙におしゃれに飾られていて、つやつやした木材の壁に知らないアーティストの描いたグラフィティ風の絵がいくつも飾られていた。そのうちの一つに

"The problem is all inside your head"

と書かれていた。僕の人生を演出している演出家がどこかにいるのだとしたら、この演出を思いついたことを理由にクビにしたいなと思った。面白くないことはないけどダサすぎる。problemが複数形ではなく定冠詞の単数形になってるのも気になった。人間のいっけん複数に見える問題が結局は抽象的な一つの問題の変奏に過ぎないのだとしたら、人間にとっての最適解は自殺だ。何故なら、そのときのThe problemとは自己のことに他ならないからだ。"I am the problem!" 『イデオロギーの崇高な対象』はまだ第1章の触りまでしか読めていないが、そこまで読んだ限りではジジェクはThe problemに与するように思える。problemsに与する思想家たちが必要だ。

MRIを受ける前に医師の問診を受けたが、質問してくる医師は見るからに疲れ果てていて、うなだれながら所定の質問を投げかけてきた。これ以上の心労を与えるのは人道にもとるように思われたので、可能な限り手早く済ませた。

MRIの機器が独特のけたたましい音を立てるのは以前どこかで聞いたことがあったが、音への対策としてヘッドホンで音楽を聞かされることは知らなかった。ヘッドホンからはサティのジムノペディがゆるゆると流れていた。ゆるゆるすぎてMRIの音を全く誤魔化せていなかったが、それでも機械音の合間を縫ってゆるゆると耳に届いていた。僕の頭は檻のような器具で固定されていて、機器内部の抽象的な模様から目がそらせない状態になっていた。ヘッドホンの中でピアノが瀟洒なメロディを奏でようとするたびに、無粋極まりないMRIのゴンゴンゴンゴンゴンボンボンボンギギギギギがそれを打ち消してきた。諸々の状況がなんだかシュールレアリスティックな感じがして笑ってしまった。MRIは僕の笑いの脳を記録しているのだろうかと思った。

検査が終わって、今月分の食費になるはずだった金を全て払い終わると、両親から心配のラインが飛んでいたことに気づいた。僕が両親への疑心暗鬼で狂っている間、二人はきちんと僕の心配をしてくれていたのだった。金銭的支援もしてくれるとのことだった。

父は医師をやっていて、その父が言うには、偏頭痛は一回起こるととその後「頭痛持ち」というステータスが付与されたような状態になり、頻度に差はあれ定期的に再発することになることが多いという。「偏頭痛になる」という表現があり、それは頭痛自体の発生よりも、そうしたステータス所持の状態になることを意味しているらしかった。

僕は、ソシャゲのキャラクターが失った偏頭痛が自分に移って来たような気がした。視界の歪みは今はなくなっている。MRIの結果は後日分かるので、自分の脳がどうなっているのかまだ知らない。