装置

死・マンガ表現・ツイッター

レジ打ちに関するサバイバーズ・ギルト

日常に関する問わず語りです。

 

誰かが酷いことをしているのを見て見ぬ振りした経験は誰しもあると思う。

最近、たまたまなのだが、コンビニやスーパーなどでレジ打ちをしているアルバイトの人が、客にいちゃもんをつけられたり、無駄話に付き合わされていたりするのを見かけることが多かった。レジ打ちバイトと客との間にはかなり大きな権力的な格差がある。ニーチェ先輩みたいなのはごく一部の変わり者であり、殆どの人は、罵声を浴びせてくる人間に対して反論しようなどという気合を、時給1000円も無いようなパートタイムジョブに対して持ち合わせてはいない。そうでなくとも、バイトはいかに酷い侮辱を受けようとも、僅かでも客を不快にさせてしまってはならないのであり、下手に反論してクレームなど入れられた日には、店長やエリマネとのさらなる不愉快な時間が待っている。バイトに罵声を浴びせるような人間は、同時にいかにも店にクレームを入れそうな人間でもあり、バイトたちはそのことをよく分かっている。かてて加えてたちが悪いのは、「連中」もまたそうした権力構造をよくよく把握していて、レジ打ちバイトのことを無料の精神的パンチングマシーンか何かだと思っている。

また、そうした現場に出くわした他の客にしたところで、バイトのことを守るような行動に出ることができる人間もまた非常に少ない。そもそも私にはバイトを守ってやる責任など一切無い。義憤を理由にして立ち上がったとして、「連中」が素直に引き下がってくれれば良いが、逆上してこちらに罵倒の矛先を向けてきたり、物理的に暴れ回る可能性だってある。そうした問題を片付けることができたとしても、店の責任者や警察官に状況を説明をする義務が発生するだろうし、そこには現場にいたバイトも同席することになるだろう。結果、私はバイトに追加の拘束時間をプレゼントすることになる。そうした事情で発生する拘束時間に時給が出るのかは、私には経験が無いから分からないが、出ない場合は私は間接的に人間を自分のために無償奉仕させたことになる。なんにせよ、私にとっての勝利は「クレーム客がたまたま、他の客から怒られたら素直に引き下がるヘタレだった」という条件が満たされた時に限られる。これは要するにギャンブルなのであり、日常をギャンブルだと捉えているアカギ的存在でもない限り、「連中」については無視をするのが賢い選択ということになってしまう。仮に私がアカギだったとしても、赤の他人であるバイトを私の独断でギャンブルの席に着かせて良いのかという問題もある。アカギはそんなこと気にしないだろうけど。

そんなわけで、近代社会に生きる私たちには「連中」に対して打てる手が少ない。こうした権力構造を利用して人間をパンチングマシーンにする行為の道徳的な低さは自明であり、「連中」は勝手に低くなっているのだから見下してやれば良いという見方もできるかもしれない。しかし、そうは言っても諦めがつかない気がするのもまた事実ではないか。私が目撃したイチャモン現場の中で一番酷かったのは、新人なのかレジ打ちに時間が掛かっているバイトに対して「日本人か〜?」などと言っていた中年男性に出くわしたものだ。権力的に不利な人間を侮辱するというのは、それだけで人間として地球の核まで落ち込むくらい低くなってしまうのに、そこに幼稚なナショナリズムと人種差別、日本人は計算ができるというステロタイプの再生産による間接的な他の日本人への侮辱まで入っており、低さの数え役満が地球を突き抜けてアルゼンチンあたりで顔を出す。何を言っているのか。また、自分が書店でレジ打ちをしているときにも、酔っぱらいが何故かさいとう・たかをの悪口を言いまくるのに付き合わされるという妙な経験をしたことがある。先のレジ打ちに時間がかかっていた人と比べれば格段に辛さの少ないものではあるが、それでも相槌を打っている間は地獄そのものだ。この仕打ちは明らかに自分の賃金に見合っていない。ホストやキャバ嬢が似たような仕事でそれなりの高給をもらうのに対し、こちらはほぼ最低賃金である。しかも下手な返しをすると怒り出す可能性さえあり、ここはキャバクラではないので黒服もいない。私はパラッパラッパーの譜面のように適切な言葉をタイミングよく出すように努める。「そうですね〜」「なるほど〜」「へ〜」。オッサンはパラッパラッパーと違ってイカした音を出してはくれないし、アドリブで「そうそうそうそうでそうでなるほど〜なるなるほなるへ〜へ〜そそそそ」みたいな声を出すことも許されない。やがて私は自分の言葉と物理学との区別がつかなくなり、何故こんなことをしているのか、この時間は何のために存在しているのか、目の前のこのアホは俺に内面とか精神があるということをちゃんと理解できているのだろうか、などなどの虚無なる思考の中にどこまでも落ちていき、自分が普段どうやって言葉を使っていたのか思い出せなくなる。こちらに反論や文句を言う権利があれば、相槌は同じでも気分はだいぶ違っていただろう。しかしバイトに求められるのはひたすら譜面を流れてくるノーツを正確に叩く機械になることだ。レジ打ちバイトに余計な話をするというのは、バイトの人格を機械へと貶め、精神を摩耗させる残虐な感情労働である。

ともかく、自分が直接関わっておらずとも、不道徳行為の現場に居合わせてしまうと、私は否応なく、抗議するか否かという選択を迫られる。小賢しい私はもちろん否を選択する。私は自分の用を済ませてそそくさと店を出る。私の背後でバイトはまだ理不尽に耐えている。私は自分の選択が間違っているとは思わないが、それでも焼け野原で助けを求めている全身大火傷の人を見捨てるような気持ちになり、心の中で「ごめんなさい、ごめんなさい」と繰り返す。その日はなんとなく嫌な気持ちが残り続ける。

このような目に遭うかどうかは、「連中」が怒り出すかどうかと同じく確率による。目の前に商品を出してきた客がどのような人間なのか、コモンな常識人なのかスーパーレア狂人なのか、レジ打ちたちは一回一回ガチャを引く。会計をする私たちにできることは、せめて自分だけは目の前の人間に負担をかけまいと努力することだけで、前や後に並んでいる人間の脳の善性について保証することも、その脳に善人回路を埋め込むこともできない。それに、自分だってレジ打ちになることもある。今でこそレジ打ちに辟易して別のバイトをしている私だが、さいとう・たかをアンチのオッサンの相手をしているときは確かにレジ打ちだったのであり、今日が自分がレジ打ちをしていない日であることには何の理由もない。今日がさいとう・たかをアンチのオッサンに出くわした日であっても良かったのであり、そうでないのはたまたまだ。

そして誰かが運悪くスーパーレアを引き当てて、「俺のことをナメてるんだろ」とか「馬鹿にするな」とか何とか喚き散らす「連中」の声が聞こえてきたとき、私の胸に去来するのは、ある種のサバイバーズ・ギルトである。私だけ今日はたまたまレジ打ちじゃなくてごめんなさい、私だけ運が良くてごめんなさい、私が貴方でなくてごめんなさい。人間同士のコミュニケーションに関する確率の戦場で、私はただ偶然にも弾に当たらなかっただけだ。

街を歩くのはそれだけで戦場に出るかのようだ。すれ違った人の内面を誰が知ろうか?隣を歩いている人のイヤホンの中で流れているのがヒトラーの演説ではないとは誰も保証しない。しかし私はどういうわけか生きていかなければならないと思い込んでいて、食べ物やらなんやらのために今日もスーパーやコンビニのレジで会計をして、周囲の人間ひとりひとりについてガチャを引く。