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TOHOシネマズ新宿から出て5分くらいの間の経験についての日記、あるいは場所と繋がりについて

TOHOシネマズ新宿に『モアナと伝説の海』を観に行きました。存在とは動物的な快楽原則でも社会的な実用性でもなく、両者を掛け合わせた中で生まれてくる何らかの呼び声、ある種の信仰によって成立するのだ、みたいな話だったと思います。あと飛行石とか腐海とかジブリっぽかったですね。

まぁそれはいいとして、『モアナ』の話ではなくて『モアナ』を観に行った際の付随的な状況の話をします。

 

まず『モアナ』観賞時なんですが、隣に座ったカップルが十分に社会化されておらず、コンビニで買ってきたと思われるプリングルスをザクザク食いながらペットボトルのコーラをプシュッと開けて飲んでおり、厳しかったということがありました。本編上映前には「映画館の外で買った食べ物はやめてね」みたいな注意映像が流れるのをご存知かと思いますが、カップルには食らい判定がないらしく、僕も食らい判定を無くしたいなと思いました。

ですが、見方を変えれば、僕とカップルは完全に相容れない性格の持ち主であるにも関わらず、一本の同じ映画を観ているという点では状態を共通させており、ある種の出会いがあるわけです。映画館は生活習慣の違う他者と他者とを、作品を通して、つまり同じスクリーンに対する複数の視線を束ねることで、ひとつの共同性の中に投げ込む箱であり、プリングルスのバリバリ音も、もしかしたらこれはこれで映画の一部なのかなと思いました。それはそれとして食らい判定はあった方が良いですし、僕はカップルの死を願っています。

 

さて映画館を出ると、僕は知らなかったのですが、この日は新作『キングコング』のイベントか何かだったらしく、レッドカーペットの上をサミュエル・L・ジャクソンとかGACKTとかが歩いており、周りでスマホを構えた人々がキャーとかウオーとか言っているのが見えました。僕は興味が無いことはないけれど、それよりさっさと帰りたかったので、道が混んで嫌だなあと思いながら人だかりの中をもぞもぞと抜けていきました。

新宿駅東口からTOHOシネマズに抜ける通りは、行ったことのある人は分かると思いますがとてもたくさんの量の風俗案内所があり、ピンクとか金色の電飾看板がキラキラしている場所です。サミュエル・L・ジャクソンたちはその通りを歩いていました。レッドカーペットの左右に沿って衝立というか壁がズラッと並んでいて、多分これは狂人から芸能人を守ったり、スマホや報道の列を整えるなど、芸能人の安全のためにやっていることだと思いますが、僕はこの壁が同時に、新宿の風俗案内所たちをサミュエル・L・ジャクソンGACKTの視線から守っているようにも見えました。サミュエル・L・ジャクソンが日本の最も大きな駅のすぐ近くに大量の風俗案内所があるということに気づかないよう、衝立とスマホのカメラフラッシュが協力して壁を作り、隠している。

壁の外側にいる僕は風俗案内所を見ている。内側の人々は僕とは違うもの(TOHOシネマズ新宿のビルについてるデカいゴジラの頭とか)を見ている。我々はすぐ近くにいるのに…。直前に同じ『モアナ』を見ることで食らい判定の無いカップルたちと出会っていた私は、距離的な近さは空間を共有していることには決してならないこと、それぞれの対象を見る「視線」が空間を作るのだということ、日本一大きな駅の側にこんだけ風俗案内所を並べといたらそりゃ売春国家と呼ばれることもあるかもしれんなというようなことを考えながら、GACKTに悲鳴をぶつける群衆にもみくちゃにされながらやっと新宿駅東口に出ました。

 

さて新宿駅東口には新たな登場人物がいて、幸福実現党の何からしいオッサンが街宣車の上であれこれと演説していました。僕が聞いた内容はおおまかには、「最近は親に対して『何故自分を生んだのか』と聞く子供がいるという。実は私も言われた。しかしこれは勘違いで、生まれてきた子供たちの方が親を選んで生まれてきたのだ」という感じでした。

僕は立ち止まって聞くつもりはなかったのでさっさと脇をすり抜けていきましたが、演説が聞こえなくなってから、聞いた内容について考えていました。子供が親を選んで生まれてきた、ということは、子供は生まれる前に何らかの選択が可能である空間にいて、そこで任意の親を選択したということになるわけですが、ならその「選択」自体はどこからやってきたのか?というかそれ以前に、「子供が親を選ぶ」というイデオロギーは「だから生まれてきたのは子供の自己責任だ」という考えを必然的に引き起こし、今の若者に対する支援の薄さを正当化する論理なのでは?そうして正当化すること自体が親と子供の間の繋がりを広げ、突き放すことになっているのでは?そもそも親に自分の生まれた理由を聞いてくる子供なんてのは70年代からよく話題にされていたことでは?古くね?

生まれてくる前に子供が親を選択する空間は、たぶん普段僕達がいる経験的な空間の外側、天国とか霊界とか呼ぶことのできるある種の彼岸、あの世、みたいなものだと思いますが、何らか空間が存在するためには、それを一つの範囲として成立させる外側の空間が存在するパターンと、その空間が無限に広がっているパターンとがある筈で、しかしどちらとも正であり且つ偽であることはカントが証明しています。

ここまで言っといて難ですが、そもそも幸福実現党=幸福の科学は宗教団体であり、そうした論理的思考とは違う思考、信仰とでも呼ぶべきものを扱っているのであって、子供が親を選んできたという考え方も、論理的に吟味されるべきものではなくただ端的に信じられるべきものであると考えるべきでしょう。

しかし裏を返せば、家族というものはまさにこのような信仰、親と子供の間には論理的思考を超えた何らかの縁がある、ということを、端的に信じるということによってのみ成立するということです。僕たちはなんとなく親や兄弟姉妹と同じ家に住んだり住まなかったりしますが、そういう風に同じ空間を共有するには、同じ縁を信じる、『モアナ』やサミュエル・L・ジャクソンの話と繋げるなら、同じものを「見る」ことによって初めて可能になるということではないのか。ただ同じ空間にいるということは必ずしも何かを共有させない。僕はGACKTに悲鳴を上げる人々と肌を接するほど接近し合いましたが、僕と彼ら彼女らは全く何も繋がりを持たなかった。

 

さて、このような経験が僕が映画館から出た5分くらいの間にありまして、僕はこれらの経験に何らか通じ合うものを見出しています。だからこんな記事を書いています。しかし、『モアナ』も、サミュエル・L・ジャクソンも、風俗案内所も、幸福の科学も、本来的には互いに何の関係もありません。たまたま同じ時間に、近い場所に存在していたというだけです。にも関わらずなんとなく繋がりがあるかのようなことが言えてしまうのは、おそらくそれぞれの現象を、僕という一人が連続的に体験したから、そして一つの記事=空間にまとめたから、なんだと思います。それぞれの無関係な情報たちは、僕という一人を縁にして通じ合っている。

僕は、キングコングのいる島とモアナがいる島ってなんか似てるなとか、「親を選んで…」と演説していた幸福実現党のオッサンは風俗案内所の看板を見ていたのかなとか、レッドカーペット横の壁から出ることを許されない芸能人たちは島から出ることを許されないモアナとパラレルだなとかいうことを考えることができます。無関係な事象たちは、モアナが船で島から島へと渡っていくように結び付けられ得るし、また無関係な物事が結び付けられ得るということによって、これまで密接に関係づけられていると考えられていた物事も、その関係性を疑うことができる。新宿という場所も、食らい判定の無いアホカップルも、僕が書き、あなたが読むこの記事も、そうやってできています。