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『沈黙』観た:沈黙することの難しさ

映画の話です。

 

『沈黙』、角川シネマ新宿に見に行ったのですが、もう公開から2ヶ月くらい経ってるしチケット買わなくても大丈夫だろと思い、予約無しで行ったところ、見事に満席でした。地方出身者が東京で映画を見るとこういうことが起きます。

以下ネタバレを含みます。あと僕は原作未読です。

 三時間近い上映の中で退屈する瞬間が全くないスゴイ作品で、全編に渡って言いたいことがいろいろあるんですが、僕が特に気になったのはやはりラストの棺桶の中のロドリゴと、彼の携えるロザリオを透視するかのようにズームアップしていくショットです。あそこは個人的にはちょっと残念というか、そういう画にしてしまったらこれまでのロドリゴやキチジローたちの苦しみは本当の意味では救われてないことになってしまうんじゃないのと感じる一方、映画として作品化するならこうするしかないのかなと思う部分もあり、見る人によって評価の別れるショットだったと思います。僕個人としてはまだ評価保留という感じです。

この作品を一言でどんな作品かと説明するとして、いろいろな切り出し方があると思いますが、僕の興味関心から言うならば「記号の冷酷さの話」でした。ここで言う「記号」とは、とりあえず「音声、絵、文字、儀礼など、形式だけであれば地球上のどの土地でも再現可能であるもの全般」くらいに考えておいてください(本来はもっと厳密でちゃんとした定義や議論がある)。

 

記号の優しさ:形式

いま冷酷さと言いましたが、冷酷さの話をする前に、記号の優しさについて話しておこうと思います。記号の優しさは再現可能性によってもたらされます。序盤のトモギ村や五島において、日本人キリスト教徒たちはミサや聖体拝領(煎餅みたいなのを細かく分けて食べているやつ)によって心底救われているように見えます。キリスト教(というか一神教)は、宗教戦争などのイメージは措いておくとして、本来は世界中全ての人間を救済することを目指す教えであり、その為にはいかなる土地でも神父を活動させることができるようなシステム・儀礼化が必要でした。「この宗教のメンバーになるためにはまずこの土地の何々という山を登って…」みたいなことになっていてはダメなわけです。地球上のいかなる場所であっても、ミサは行うことができるし、教会を建てることはできるわけです。ロドリゴ神父たちがポルトガルから地球の反対側と言っても過言でないくらい遠い日本の農民を救済してやることができるのは、キリスト教が地上のどこでも再現可能であること、つまり記号化されていることによるのであって、記号が持っているこの平等性を、ここでは記号の優しさと呼びましょう。

信仰とは、これらの記号が我々人間には感知できない世界、すなわち神に繋がっていることを「信じる」ということです。ミサや聖体拝領という記号の実践によって、教徒は自らが神と繋がっていることを信じ、自分が非常に大きくて偉大なものと一体であることを信じます。このことによってキリスト教徒は救われます。彼らが何故あそこまで踏み絵を拒否するのかというと、キリストの絵という記号を踏むということは、神と記号とが接続していることを否定するということであって、仮に踏み絵によって生きながらえたとしても、これまで信仰を持ち続けることによって得られていた救済が消滅してしまうからです。それはある意味で死を意味します。相手に踏み絵を強いるということは、精神を殺して肉体を生かすか、肉体を殺して精神を生かすか、という二択を迫ることであり、それゆえにあまりにも酷い行いなのです。

 

記号の残酷さ:声

さて、このような記号の優しさは実際、記号の冷酷さと表裏一体です。上で私は記号を「形式だけであれば地球上のどの土地でも再現可能であるもの」と言いましたが、この定義の頭の部分、「形式だけであれば」が作中のロドリゴ神父たちにとっては非常にやっかいです。

形式が同じであることは、全ての人がその記号を同じように受け取っていることを意味しません。このことは作中では何よりも音声によって示されます。作中、日本人はロドリゴポルトガル人と話す際、何度も英語の発音に苦戦します。例えば序盤、ロドリゴとガルペが日本の農民の女性に「私たち、いま「ぱらいそ」にいるんですよね?」と言われ、「ぱらいそ?えっなにそれ」となるシーンがあります(パライソはポルトガル語で楽園:パラダイスのことなんですが、ポルトガル人であるはずの彼らがこれを分からず「ああ、Paradiseのことね」と返答するのは違和感がありました。もしかしたらわざと混乱を狙っているのかもしれません)。これはParadiseなりParaísoなりの言葉=記号が、土地によって異なる発音をされることを示しつつ、その後に続く、女性がキリスト教の楽園の教えを微妙に勘違いしていたことが分かるくだりにつながっています。

それ以外にもキチジロウの告解(confession)の発音が怪しかったり、ロドリゴが五島の人々がやたらと具体的な物体を欲しがるのを怪しんだりするシーンもありますが、極めつけはフェレイラがフランシスコ・ザビエルの日本における布教について話すくだりでしょう。ザビエルは唯一の神(デウス)の概念を日本人に伝える際、デウスというのは大日のこと、つまり太陽であると言った。フェレイラはこのことを自嘲的に「我らのキリストはSon of Godだが、日本のキリストはまさにSun of Godだ」と言います。日本人は全ての経験的なものを超越した世界にいる存在者(神)というものを理解できず、それゆえにザビエルは教義が歪むことを承知で、日本において最高神として崇められてきた太陽が神であるということにしなければならなかった。ミサなどの儀礼としてはロドリゴたちと同じものを伝えたが、それらがどう解釈されるかは統一しなかった。そうしたズレが「サン・オブ・ゴッド」というダジャレに象徴されています。

さて、そんなわけでロドリゴは、同じ記号が必ずしも同じものを指し示さないことを思い知らされます。世界中にキリスト教の記号を広めることによって、地球の裏側であっても人々を神の恩寵の元に導くことができると信じていた彼ですが、それは疑われます。牢の中で彼は必死に聖書の記述を暗唱し、続いてそれがどのような意味であったのかを声に出して確認しますが、同じ牢の壁にかつてフェレイラが刻んだ聖書の一節(よく覚えていますが、確か「神は偉大なり」だったと思います)が、その実フェレイラが踏み絵に屈する直前に刻んだものであることが分かります。それはつまり、目の前の聖書の一節が正統的な解釈としての神を称える意味だけでなく、フェレイラの棄教をも意味してしまうということです。ここでもやはり、同じ記述が違うものを指し示してしまうというモチーフが反復されています。

ロドリゴを救うには、この記号はこういう意味だ、お前が守っている形式は間違いなく神に繋がっているのだということを証明してくれる神=キリストの声が必要です。記号は記号である限り、受け手による自由な解釈を許してしまうのであり、彼はまさにそのことによって苦しんでいます。音声もまた(サン・オブ・ゴッドのように)記号のひとつではありますが、声はそれを発した者と常に結びついています。ロドリゴに必要なのは、神=キリストが発したということが明確にわかる声です。しかし、作品タイトルにもあるように、神は「沈黙」を続けます。

そしてついにロドリゴが踏み絵を迫られる時、彼の足元にあるキリストの絵が、彼に対してついに声を発します。しかしそれは「踏みなさい」という声でした。ロドリゴポルトガルのいた頃なら、その絵は間違いなく「踏むな」ということを意味していた筈です。しかし今、キリストは踏めと言う。ここにキリストという記号の意味の統一は失われ、キリストの顔がフェードアウトするショットが挟まれ、ロドリゴは「踏み」、しかるのち「転んで」、地に伏します。

 

キチジローというキリスト

さて、ここでキチジローに注目してみます。彼はなんとも胡散臭い人物で、キリスト教徒を自称したかと思えば別の場所では否定したり、作中なんと四回もの踏み絵を実行した(二回目の時にはそれに加えてロザリオにツバを吐いた)かと思えばそのたびにロドリゴのもとへ告解と赦しを求めに来たりと、一見どう見ても経験なキリスト教徒とは言えません。しかしそれと裏腹に、彼の格好はキリストそっくりなのです。三回目の踏み絵の際には特に似ていて、ボロいふんどしと伸び放題の髪や髭、肋の浮いた痩せぎすの身体などは、しばしば絵画などで磔刑の場面に描かれるキリストそっくりです。なのにこの時のキチジローは作中でも特に情けなく、役人に命ぜられてキリストの絵をサッと踏んで、解放されたら何のためらいもなくヒョロヒョロと走り去ってしまいます。僕はあのシーンでやっぱり窪塚洋介って天才だなと思いました。

そんなキチジローですが、しかし棄教したロドリゴに対してそれでも「パードレ(神父さま)」と呼びかけます。ロドリゴはかつて踏み絵を繰り返すキチジローを軽蔑の目で見ていましたが、キチジローはロドリゴが踏み絵をした後でも全く軽蔑をせず、告解を求めに来ます。

キリスト教について詳しい人は、彼の姿に「つまずきの石」を思い出したのではないでしょうか(僕はキルケゴールの『死に至る病』で知りました)。これは新約聖書「ローマ人への手紙」にある記述の一つです。以下はネットでアクセスできる口語訳新約聖書からの引用です。

9:30では、わたしたちはなんと言おうか。義を追い求めなかった異邦人は、義、すなわち、信仰による義を得た。 9:31しかし、義の律法を追い求めていたイスラエルは、その律法に達しなかった。 9:32なぜであるか。信仰によらないで、行いによって得られるかのように、追い求めたからである。彼らは、つまずきの石につまずいたのである。

9:33「見よ、わたしはシオンに、
つまずきの石、さまたげの岩を置く。
それにより頼む者は、失望に終ることがない」

と書いてあるとおりである。

「つまずきの石、さまたげの岩」とは要するにキリストのことであり、キリストは信じない者にとってはその辺にある石のようなものであって、邪魔なだけだが、信じる人にとっては同じ石が救いをもたらすということ、救いとは具体的な行為(記号)ではなく、ただ信じること、信仰によってもたらされるのだということが寓意的に語られているわけです。

キチジローの信仰は反復可能な記号の形式ではなく、ただ内面的な信仰に依っている。だから踏み絵もできるし、ロザリオにツバだって吐けるけれど、信仰を保ちつづけることができる。記号と神の繋がりを信じていたロドリゴにとって彼はまさに邪魔なやつに過ぎませんでしたが、踏み絵を経たロドリゴを救うことができるのは、キチジローと、キチジローが示した記号に依らない信仰心のみなのです。キチジローがキリストの格好をしているのは、彼がロドリゴの「つまずきの石」だったからです。

 

ラストシーン:沈黙することの難しさ

ここまで来てついに冒頭に触れたラストシーン、棺桶の中のロドリゴと、彼の遺体が携えていたロザリオのショットに返ってくることができます。

終盤のキチジローの四度目の踏み絵、ロドリゴとともに棄教したことを繰り返し確認されているシーンで、キチジローもロドリゴも踏み絵を実行しますが、その際キチジローは懐にロザリオを持っていたことがバレてしまい、役人にしょっぴかれてしまいます。おそらく、彼はこれまでの踏み絵の際にも常にロザリオを隠し持っていたのでしょう。これまで不信心に見えた彼が、実は一貫して信仰を守っていたことを示すシーンであり、彼の汚名が注がれる場面でもあります。

しかし、これまで私たちが見てきたように、『沈黙』はロザリオなり踏み絵なりの記号に対する懐疑に貫かれた作品であったはずです。信仰とは具体的な事物や経験ではなく、ただ信者の内面によって行われるものであったということでなければ、ロドリゴが踏み絵をした後でも救済される可能性がなくなってしまうはずです。しかし、この作品はキチジローの信仰心を表現するのに、ロザリオという具体的形象を持ち出してしまいます。そして同様に、ロドリゴの遺体もロザリオを隠し持ちながら火葬されます。

ロドリゴやキチジローが本当に記号に依らない信仰を実践するなら、彼らは最後まで沈黙を貫く必要がありました。しかし、ラストシーンのナレーションにもあるように、彼らが信仰を保っていたのかどうかを完全に「神のみぞ知る」状態のまま終わってしまっては、観客は彼らが信仰していたのか、そして救済されていったのかを知ることができません。映画はスクリーンに映らないもの、スピーカーから流せないものを表現できません。それでは作品的に、そして興行的にマズいわけです(原作未読なのでわからないのですが、原作でもロザリオを持っていたのでしょうか?)。かくして彼らは沈黙を守れず、記号は否定されるのではなく、こっそり実践されるという形を取ります。

このラストシーン、どうするのが正解だったと思いますか?これは難しい問題です。この作品は記号の残酷さとキリスト教徒の救済、どちらをも主題として含んでいます。かたや記号の残酷さに対して真摯であろうとすれば、ロドリゴたちの救済を描けない。かたやロドリゴたちの救済を描けば、記号の残酷さは誤魔化されてしまう。そして、作品はこれらどちらも曖昧にしておくことは許されず、どちらかを選ばなくてはならない。

今回、沈黙は破られたわけですが、この作品は一方であまりにも容易く沈黙を守りつづける神があり、他方で沈黙し続けることに多大な困難を感じるロドリゴたちがいる、という二つの沈黙が平行、あるいは交差している作品であったと思います。両者は平行していたのでしょうか、それとも交差していたのでしょうか。思うに、沈黙するか否かという問いの前に立たされたということ自体が、それにどのような答えを出すかはともかく、沈黙する神と沈黙できない人間の交差点に立ったということだったのではないでしょうか。何故ならキリスト教とは交差の、十字の宗教だからです。

 

 

閑話休題

十字といえば、序盤にロドリゴたちがポルトガルの教会の階段を降りるショットで、カメラはロドリゴたちの真上から注ぎ、ロドリゴたちは画面の真ん中を割くように横方向の直線を描いて歩きます。その後、マカオから日本に密入国する際(トモギから五島に行くときだったかも、よく覚えていない)、カメラはまた船の真上に置かれ、船は画面の真ん中で縦方向の直線を描きます。この縦横の直線は十字を描き、キリスト教を象徴しているわけですが、そのだいぶ後のシーンで、ロドリゴの目の前で教徒が首を斬られ、役人が首のない死体を引きずっていく時、首から流れる血が画面を右上から左下へと斜めの直線を描きます。ここで斜めの線がキリスト教の十字を否定します。

象徴!素晴らしいですね。僕はこういうの大好きで、直線ってとてもいいですよね。皆さんも直線をやりましょう。