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ナイチンゲール補遺:衛宮士郎の葛藤

前回記事でちょっと足りなかったかなと思う部分があったので補足しておきます。前回はFGOについてやや非難めいたことを書きましたが、僕としてはFateシリーズ自体は「自分に都合の良い物語を語る」ことを肯定するというよりもむしろそのことについての葛藤から始まっていると考えており、理想の実現に向けて都合の悪いものを排除することに対しての罪悪感に常に苛まれ続けていた物語であったと思います。

ぶっちゃけ僕がアレコレ言うよりも東浩紀著『ゲーム的リアリズムの誕生』を読んで貰った方が良いとも思いますが、ナイチンゲールを巡るアレコレがFateシリーズの伝えてきたものに対してどのような位置に置かれるのかは書いておく意味は少しはあるかなと思います。

 

衛宮士郎の葛藤

Fateシリーズが一番最初に消費者の目に触れたのは2004年発表の『Fate/Stay Night』であり、少年・衛宮士郎を主人公とする一連の物語がその始原にあります(正確には『Prototype』がありますが、「消費者の目に触れた」最初という意味で捉えてください)。『Ground Order』まで連なるFateシリーズの出発点として、まず衛宮士郎がどのような登場人物であったのかを考えてみましょう。

彼は一言で言うなら二次創作の体現です。彼の人生は、彼が住んでいる冬木市の全体が焼け野原となった大災害から始まります。彼はこの災害の唯一の生き残りであり、その「生き残ってしまった」負い目から、自分の人生を他者の人生の下にあるものと考え、自分は人の役に立たねばならない、困っている人は助けなければならないという強迫観念めいた義務感に囚われることとなります。彼は自身を、本来は災害によって死ぬ定めであったのに、何故か生き残った、という反実仮想的な形でしか捉えられません。それは、原典たる公式的な物語(災害で死ぬ定め)に対して、「もしこうだったら」という想像力によって非公式な形(何故か生き残った)で存在する、二次創作によく似ています。

また、生き残った彼は義父である衛宮切嗣から「正義の味方になる」という夢を引き継ぎ、成長してからもその目標に従って努力を重ねていきます。言うまでもなくこの夢は切嗣からの借り物であり、士郎が如何にこの夢に殉じたとしても所詮は暖簾分けであって、本家ではありません。

極めつけは彼の魔術師としての能力である「投影」です(言い忘れていましたが彼は魔術の使い手であり、Fateシリーズは魔法とか霊とかが出て来る話です)。彼は史上に存在した様々な名剣・魔剣の類をコピーし、使いこなすことができます。コピーです。彼に彼だけの本物は存在しません。その生まれ育ちから能力に至るまで、彼は何もかもが誰かの二次創作です。そんな彼が、女性のアーサー王というこれまた反実仮想的な存在と出会うのは、ある意味で必然だったのでしょう。

『Stay Night』は、ものすごくザックリと言えば、そんな衛宮士郎が二次創作である自分を受け入れ、肯定し、成長する話です。その成長は「自分の都合の良い物語を語ることは許されるのか?」という問いに貫かれています。たとえば、彼は物語のある時点で、いくつもの有り得る未来のうちのひとつから来た自分(以下、「エミヤ」)と対面します。エミヤは、これまたザックリとしか説明しませんが、要するに正義の味方になることに失敗し、故に未だ理想を抱いている過去の衛宮士郎を憎悪しています。

衛宮士郎が成長するには、エミヤという自分自身の可能性の一つを否定し、エミヤとは違う自分になるしかありません。それは取りも直さず、自分にとって都合の悪い物語を拒否し、都合の良い物語だけを選択するということです。それは災害の中で死んでいった他の人々を押し出して、自分だけが生き残ることとパラレルです。それは自分が王座についたが故に滅んでしまったブリテン王国を拒否し、別の繁栄したブリテン王国を願うことと等価です。

故に衛宮士郎は葛藤します。その果てにどのような結論を彼が見出したのかは各自確認していただくとして、ここで私が言いたいのは要するに、Fateシリーズの原点にはこのような、「自分の都合の良い物語を語ることは許されるのか」という葛藤が刻まれていることを覚えて欲しいということです。

 

「ループもの」のトレンドの変化

前回触れた『君の名は。』に関連させて言うなら、このような切り捨てられていく物語=無かったことになる別の平行世界に対する愛惜・悔悟の念というのは、『君の名は。』が属するところである所謂「ループもの」や、複数ルートの攻略をゲームシステムとして殆どの場合持っている美少女ゲームに常に主題として見出されてきたものです。key作品などの古典的な例については『ゲーム的リアリズムの誕生』を読んだ方が分かりやすいので省きますが、最近であれば『シュタインズゲート』や『魔法少女まどか☆マギカ』などの名前を挙げればピンとくるのではないでしょうか。

こうした主題と関係していた以上、「ループもの」や美少女ゲームは、もともとはナショナリズムやポスト真実のようなものとは対抗するジャンルであった筈です。しかし『君の名は。』やナイチンゲールの逸話をめぐるアレコレはそうした記憶をあっさり忘れてしまっています。死んでいった世界の三葉や優しかったかもしれないナイチンゲールを無かったことにする時、衛宮士郎を通じて我々が通過したはずの葛藤もまた無かったことにされています。

私がポスト真実だ何だと言ったのは、『君の名は。』やそれに類するコンテンツ全体に対してではなくて、こうしたトレンドの変化、衛宮士郎的葛藤から『君の名は。』的エンタテインメントへと消費者が求めるものが変化していることに対してでした。

この辺りについてツイッターで質問して下さった方があり、もしかしたら前回記事だけでは不足があったかもしれないと考えたので、補遺として書き置いておきます。

 

しかしなんというか、衛宮士郎から始まっているFateシリーズにおいて、先のナイチンゲール云々が無邪気に史実呼ばわりされるというのは皮肉としか言いようがありません。『Stay Night』まで遡らなくてもちょっと前に『Zero』で切嗣が正義の味方であるために大量に殺さなくてはならなかった苦しみが描かれて、言うなれば士郎の葛藤が再演されていたわけですが、やっぱアニメでおもしろ顔しちゃったのがよくなかったのか?