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死・マンガ表現・ツイッター

ナイチンゲールという無辜の怪物、『君の名は。』という共同体、そしてポスト真実

togetter.com

2017年のはじめに、ツイッター上でフローレンス・ナイチンゲールに関する、ある逸話が(局所的に)話題になりました。逸話と話題になった様子は上記のまとめを御覧ください。

なぜこのような逸話が掘り起こされたのかというと、Fate/Ground Order(以下FGO)というソーシャルゲームにおいて、史実のナイチンゲールを模したキャラクターが登場し話題となっていたことが大きな要因であったようです。ゲーム上の彼女は、いろいろあるのですがごく簡単に表現すると非常にアグレッシブな性格で、従来の「白衣の天使」「ランプの貴婦人」などといったフレーズとともに流布していたイメージとは一線を画するものでした。このようなナイチンゲール像がFGOプレイヤーの間で広まっていた所に、「薬箱を斧で叩き割る」というバイオレンスな逸話は、センセーショナルなものとして受け入れられたのではないかと想像します。

一方で、この逸話の史実性に関して懐疑的な立場を表明する人も現れました。

ibenzo.hatenablog.com

表題に「訂正」とあることからなんとなく推測される方もいらっしゃるかと思いますが、上記の記事は当初、件の逸話について一切のソースが見つからないものとしていましたが、後にコメントなどからの指摘により、少なくとも幾つかの伝記には件の逸話に関する記述が存在することが判明しました。無論、だからと言って逸話を手放しで史実呼ばわりすることはできませんし、記事内にあるクリミア戦争当時のナイチンゲールやジョン・ポールの置かれた状況からの推測は反駁されていません。

しかし、私が疑問に思うのは、検証記事にもあるように史実と言うには疑問が残る逸話が、何故ツイッター上では「史実」という表現とともに出回ったのか、ということです。これはまとめ作成者や話題を拡散させた人々を糾弾したいとかそういうことでは決してありません。私にそのような資格はありません。私が気になるのは、まとめ作成者やまとめられているツイートの発言者たちが「史実」という単語を用いた理由ではなく(上記検証記事のはてブコメントによると、元のツイート主はご自身が過去に読んだ伝記をソースとしていたようです)、この「逸話」がツイート元を離れてテクストとして自立した後に、有象無象のツイッターアカウントたちによって「史実」として扱われ、拡散していった理由です。

結論を先に言うなら、それはひとえに「その方が面白いから」だったのではないかと思います。そして、今という時代においては、FGOに限らずあらゆる領域で、「史実」と「面白いこと」が混同され、また「面白いこと」が「史実」として扱われるようになりつつあるのではないかと思います。

 

無辜の怪物

さて、記事のタイトルに挙げた「無辜の怪物」という言葉ですが、これはFGO作品世界の用語です。FGO世界には、かつて存在した(あるいはこれから存在することになる)英雄を霊体として現在に召喚するというシステムが存在するのですが、その際に召喚される英霊が生前の活動のイメージに引っ張られて、本来あるべき生前の姿とは異なった姿に変換させられた上で召喚されることがあります。たとえば、ドラキュラ伯爵のモデルとなり、もはやドラキュラ伯爵の方が有名になってしまったヴラド3世は、FGOを含んだFateシリーズのいくつかの作品において、そのイメージに引っ張られて本物の吸血鬼となって召喚されてしまいます。このような現象が起こった際に、その英霊は「無辜の怪物」という「スキル」を持っている、と表現されます。

無辜の怪物たちは、自分を題材にした他者の二次創作的な想像力によって、自らの意志と関係なく変身させられてしまった、ある種の被害者です。大学の日本史学科の卒業論文司馬遼太郎の小説を論拠として持ってくる奴がいて困った、などという笑い話のような怖い話のようなエピソードを時たまSNSなどで見聞きすることがありますが、無辜の怪物はまさにそのような事態の謂いであり、実在した英雄を題材に創作されたコンテンツであるFateシリーズの、あるいはそのシナリオライターである奈須きのこの、自戒と自虐が込められた設定であると言えるかもしれません。

さて、ここで冒頭のナイチンゲールの逸話を巡るツイッター上の盛り上がりに立ち返りましょう。件の逸話は史実だったのか、それともフィクションなのか、それは(少なくとも私には)分かりません。しかし、逸話が「史実」のラベル付きでバズるという事態と、英霊が後世のイメージによって「無辜の怪物」と化すというFGO世界の設定は、パラレルなものであるように私には思われます。もちろん、本当に彼女は薬品箱を叩き割る豪傑だったのかもしれません。ナイチンゲールの死後の時代に生きる私たちは、伝記を材料に彼女について自由な想像をすることができます。FGOもそうした想像力によって創作されたコンテンツです。しかしそれはあくまで創作という水準の出来事であり、「史実」という現実的な水準とは違います。

私が気になるのは、件の「逸話」がツイッターという場で、局所的とは言えどバズっていったということです。「史実」というラベルがつけられた以上、これはFGOというフィクションであることが事前に了解された世界における設定とは次元の異なる事態です。そして、この「史実」がバズったのは、実際のナイチンゲールがどのような人物だったのかとは最初から関係なく、ただ「面白いから」であったように思われます。

拡散元にこの「史実」が本当の意味で史実であるというソースが添付されていなかった以上、件の逸話が「史実」として拡散されたのは「こういう史実があり、それが面白い」というではなく、史実かどうかは措いておいて、まず単に話として面白かったことが要因であると思います。その面白さに比べれば、史実であるかどうかの重要度は低く、むしろ史実だったほうがより面白いので、あまりよく考えられないまま「史実」であることが受け入れられ、拡散されてしまいます。つまり、「史実だから面白い」のではなく、「面白いから史実」なのです。

ここに私たちは、創作上の設定の一つに過ぎなかったはずの「無辜の怪物」と共鳴するものを見て取ることができます。ヴラド3世は何故吸血鬼のような恐ろしい人物として想像されるのか?坂本龍馬はなぜ司馬遼太郎の小説に出てくるような「ぜよぜよ」言う人物として印象づけられるのか?それは、そう考えた方が面白いからであり、後世の創作によって、そう考えたほうが面白いことになってしまったからであり、彼らは「こうだった方が面白い」というある種の力学によって、事実とは関係なく「面白さ」に準拠して構成される存在、言い換えれば「怪物」となってしまいます。

 

ポスト真実、あるいは『君の名は。』が排除したもの(ネタバレ注意)

ポスト真実という言葉が様々な事態に関連して呟かれています。オックスフォード英語辞典は、この言葉を2016年の「今年の言葉」にすると発表しました。

www.bbc.com

 ポスト真実とは、上の記事によれば

オックスフォード辞書によるとこの単語は、客観的事実よりも感情的な訴えかけの方が世論形成に大きく影響する状況を示す形容詞。

であるとのことです。

もう大体おわかりかと思いますが、ナイチンゲールの逸話を巡るバズりは、「ポスト真実」が今年の言葉に選ばれてしまうような、現在の我々が生きる世界の一部であるように思えてなりません。

ナイチンゲールの例に限らず、既に日本のあらゆるフィクションにおいて、ポスト真実時代を反映したかのような表現が見られるように思います。

たとえば、2016年の最もヒットした映画と言って良い『君の名は。』において、主人公の片割れ瀧は、もう一人の主人公・三葉が災害によって死んでしまった世界を否定し、三葉が生きている世界を目指して奮闘します。しかしその結果、三葉が死んだ世界は無かったことになります。映画主題歌になぞらえて言うなら、今世の「君」に会えるのを喜ぶことが全てで、前世と前前世と前前前世の「君」が「僕」に発見されないまま終わったことは無視されています。やっと出会うことができた三葉は、瀧と身体が入れ替わっていた時の三葉と厳密に同じ人間なのでしょうか?災害で死んだ三葉と死ななかった三葉は同じ三葉なのでしょうか?瀧と出会えた三葉の影で、死んでいった三葉はどこに行ったのでしょうか?

しかしそんな疑問は「僕」と「君」が出会う喜びの前に消えてしまい、映画を見る観客のカタルシスのためにあらゆる不穏な要素は、アメリカに入国拒否される中東の人々のように、薬箱を叩き割らなかったナイチンゲールのように、スクリーンから排除されます。あるいは、それで皆が幸せになるなら良いのかもしれません。しかしこの場合の「皆」には、排除された人々は含まれていません。痛みの中で死んでいった三葉、三葉のように糸守から出たいとは思っていなかった人々、テロリストではない中東の人々、などは含まれていません。しかし糸守が災害で壊滅した後、スクリーンに映ることを許されるのは、憧れの東京暮らしを実現した三葉と、東京でも上手くやっていっている様子のテッシーとサヤちんだけであり、たとえば糸守町長だった三葉の父・俊樹や、教室で三葉の陰口を叩いていた女の子はその後どうなったのでしょう?(外伝小説は読んでいないので分かりませんが、この辺りの補完があったりするのでしょうか)

かつて『秒速5センチメートル』で「君」に選ばれなかった男の子を描いていた新海誠が、このような作品を作り、そしてそれが大ヒットを飛ばすようになったという事態に、私は複雑な思いを抱きます。ナイチンゲールにせよ『君の名は。』にせよ、個々の作品やキャラクターが個々としてどうこうと言うよりも、社会的・全体的な風潮とか精神みたいなものが個々の現象に反映しているのではないかと感じざるを得ません。

ナイチンゲールは何故薬箱を叩き割っていなくてはならないのでしょう。三葉は何故生きていなければならないのでしょう。中東の人々は何故テロリストとして見られるのでしょう。それはナイチンゲールや三葉や中東の人々が事実としてそうかということとは関係なく、「その方が面白いから」「その方が都合が良いから」なのではないでしょうか。そして、面白さを妨害する要因はスクリーンなり国境なりから排除され、無かったことになります。国境の中では皆が幸せで、外側は存在しないことになります。そのようにして作られた共同体は、共同体の仲間同士が互いの幸せを願った結果という意味では無辜ですが、しかし間違いなく怪物です。

 

 私はフィクションの中に意味を過剰に読み取りすぎでしょうか。現実と虚構の区別がついていないのでしょうか。しかし我々には、薬箱を叩き割ったナイチンゲールが現実だったのか虚構だったのかすら分からないのです。この記事の少ない読者の中に、中東のイスラム教徒に実際にあったことのある人はどのくらいいるのでしょうか。ナイチンゲールイスラム教徒も、我々の多くにとっては液晶画面の中でのみ認識できる存在です。果たして我々はこれらについて虚実の区別を明確にしているのでしょうか。

死ぬの怖くないですか(2)―「何か」の声

死の話2です。

 

ウラジミール・ジャンケレヴィッチというフランスの哲学者がいまして、名前がロシアっぽいのは両親がロシア帝国からの移民だからなんですが、この人は『死』というそのものズバリな本を書いています。超いい本なので皆さん読んで下さい。8000円くらいするので僕は持っておらず、図書館で断続的に借りて読みました。なので現物が今手元になく、今後この本の内容に触れるときは出典を明記できないうろ覚えであることを予めご容赦ください。

で、この『死』という本において、ジャンケレヴィッチは人間が自分の死を自覚する過程について述べています。それによると、人間は「死ぬ」ということを、本質的には知ることができない。どういうことかというと、人間はまず自分以外の親類や友人、あるいは報道される他者などの死に触れることで「死」というものを知ります。いろいろな形でいろいろな人の死に触れます。そのうちに、どうやら人間というものは皆例外なく死ぬらしいということがなんとなく分かってきます。しかし、それでもなんとなく、自分だけは死なないんじゃないかな、自分が死ぬ前に不老不死の薬とかが発明されるかもしれないな、という希望を心の何処かに抱き続けます。その人にとっての「死」は、「少なくとも知っている中に死なない人はいない」という、蓋然性の域を出ないからです。かくしてそんなことはなく、自分は年を取り、身体の自由が徐々に制限され、見聞きする死もどんどん身近さを増していく。どうやら自分は死を免れないらしいということが分かってくる。そしていよいよ死を覚悟する。しかし、それでもその人は死を知ることはない。何故なら、死を知るという事は要するに死ぬということであり、死を知った瞬間にはもうその知は消滅しているからです。

こうした意味で、人間は「死ぬ」ということを本当の意味で知ることはないし、言い方を変えれば、人間は自分の死を永遠に延期し続けることができる。延期が不可能になったときには、その人は既にあらゆる認識を止めているからです。

結局、人間が死について知ることができるのは、自分以外の人間の死に触れることで得られるある種の憶測のみです。しかし、これも死についての直接の知識ではない。死を直接知った人は既に「死人に口なし」になっているからです。我々は死について知ろうとする時、その核の部分に触れることは決してできず、いわば死の周辺をウロウロすることしかできません。核に触れることができた時、その人は死んでいます。

なので、「自分が死ぬ」ということについても、老いや病気などの死に近い事柄の当事者になっていない限り、人間は先に言ったようになんとなく実感の持てない、「ワンチャン俺だけは死なないんじゃね」的な希望を常に残し続ける形でしか、基本的には捉えることができないということになります。

 

しかし一方で、いろいろ読んでいると、老いや病気とは関係ない形で「自分は死ぬ」ということを疑い得ぬ事実として認識した人も割りといることが分かります。たとえば、堀江貴文は6歳の時に「自分は死ぬ」事に気づき、そのことを考えないようにするために自分を忙しくしていると言います(AERA 2011年6月6日号)。他には、同じく6歳で自分の死ぬ運命に気づき、その恐怖を抱えて哲学者となった中島義道が有名でしょうか。

自分の死について経験的に知ることはできない、にも関わらず「自分が死ぬ」ということについて疑い得ぬ事実として認識する人がいる、これは不思議な事です。自分の死は、数学の定理のように経験的な形で試験してみることができない(試験してみる行為は一般に「自殺」と呼ばれている)。人は経験できない事実について何故、心底恐怖することができるのか?私は「自分は死ぬ」に囚われて不眠になった時、こうした問いを虚空に向かって恨めしく繰り返していました。

 

経験できないことを疑いないものとして認識するのは、比喩的な言い方ではありますが、神とか精霊みたいなものが私に対してそのような声をかけるからであるように感じられます。これはあくまで比喩なので、雲の上に居る髭モジャ爺さん(だいたい白人)が私に電波通信で呼びかけたとかそういうことではなく、私にとって外部的なものとしか思えない情報が、突然私の頭のなかに湧いてきたような感覚です。外部的とは言っても、「自分は死ぬ」という情報は私にとって既知のものだったので、私にとって新しいのは「自分は死ぬ」ということではなく、その情報を私にとって外部的、しかも疑いようなく正しいことしか言わない何者かが外部から伝えてきた、と感じさせる「何か」です。人間の脳はこの「何か」を、どういう条件下でかは知りませんが自身のうちに発生させるようです。発生させるものに敢えて名前をつけるとしたら、神とか精霊とかの超自然的存在の名で呼ぶしかありません。似たような考え方としては、ホメロス叙事詩などに時折出てくる「アテナがオデュッセウスに〜〜という考えを起こさせたので、そのようになった」みたいな表現は、これに近いものを感じさせます。

ソクラテスのダイモーンなどもそうだと思いますが、死の問題に限らず人間は時たまこのような「何か」を自身のうちに発生させることがあるようです。我々の思考を強制的に方向づけるこの「何か」は何なのか。そのことについて考えるのが、死そのものについて知ることにはならずとも、死の恐怖について考えることになるのではないかと思います。

東方鈴奈庵第43話における八雲紫の胡散臭い空間

東方の話です。

鈴奈庵と茨歌仙がほぼ同時に発売され、どちらも表紙カバーに紫がいたので少し驚きました。なにせ彼女は最近になってめっきり露出が少なく、三月精儚月抄の頃のような黒幕ポジションはマミゾウに奪われつつあったので、これはいよいよ新旧腹黒老婆抗争が始まるのかと思いましたが、別にそんなことはありませんでした。

(以下、鈴奈庵6巻ネタバレあり)

 

 

 

 

で、その紫ですが、鈴奈庵6巻では43話「人妖百物語」後編に、怪談話をしにくる人妖たちのうちの一人として登場します。博麗神社の境内に組まれた櫓の上で行われる百物語ですが、しかし紫は空間的なポジションにおいて非常に特殊な現れ方をしています。

 

紫は櫓の上にいない

まず、これは櫓の上を俯瞰から描いたコマです。


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(鈴奈庵6巻96頁。)
ご覧の通り鈴奈庵のレギュラー連中に混じって見覚えのある影もありますが、紫はこの中にはいません。櫓の全体を俯瞰するショットはこれを含めて3つあるのですが、そのどれにも紫は存在しません。

当初はレミリアの後ろにいる女性が紫かなと思いましたが(紫の肩越しに魔理沙・黒髪の少女・小鈴・阿求が映っているショットのコマが108頁にあり、紫はこの4人の対角線上に居ると思われた)、この女性はZUN帽を被っていませんし、後のコマで正面から顔が写った際にほうれい線の走った、紫とは別の老婆であることが分かります。紫はかれこれ2000年くらいアンチエイジングに余念がないのでほうれい線はありえません。というかいくら薄暗いからって悪魔の主従の背後に居座れるこの老婆は何者なんだよ


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(同上115頁。周囲に異変が起こっているのにレミリアの背後で不敵な笑みを保つ老婆)


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(同上108頁。紫の肩越しのショット。黒髪少女はなかなか良い位置に座っており、小鈴か魔理沙の知り合いか?)

 

そもそも、百物語の主な話者であるマミゾウと紫を比較すると、他の登場人物との位置関係が分かるようになっているコマが多いマミゾウに対して、紫はバストショットばかりで位置関係がわかりにくいコマにばかり登場しているのも気になります。唯一他キャラと一緒に映っている前述の肩越しショットのコマも、俯瞰コマから考えてみればレミリア・咲夜が座っているはずの位置か、その前方の蝋燭が密集しているはずの場所にいるような描写がされています。


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(同上103頁。吹き出しにカブられる黒い口髭の男。マミゾウはこの男の向かって左隣に座っている)

 

単に人物の配置を劇作に合わせて融通してるんじゃないかと思われるかもしれませんが、一方で紫以外の人物は各コマにおいてかなり厳密に配置の一貫性が守られています。紫だけが妙に胡散臭い空間に存在しており、おそらくですがこれは制作側が故意に行った演出ではないかと思われます。


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(同上99頁。小鈴視点のコマ。俯瞰のコマと照らし合わせると、各キャラの座り位置と無矛盾であることが分かるし、黒口髭の男が妖夢の吹き出しによってまたもやカブられていることも分かる。更に咲夜・レミリアを画面から隠すように若干身を乗り出している新たな白い口髭の男。幻想郷の男の間では口髭が流行っているのか?)

 

紫は作品内世界と現実世界の境界にいる?

思うに、紫のいる空間は作品内世界でありながら同時にそうではないような、強いて言えば鈴奈庵というマンガを物質的に構成している紙の表面、紙面上としか言いようのない空間です。理屈の上では櫓の上のどこにもいないはずの紫は、紙面上に視覚イメージとして他のコマと共存しているということによって、作品世界内の空間的な矛盾を無視してその場に存在することになっています。すなわち、紫がいるのは作品世界のレベルと表現のレベルの境界であり、それは言うなれば、自分が紙の表面に付着したインクの染みであることに自己言及するような存在の仕方です。これは茨歌仙7巻の中でも読み取れることで、例えば黒ベタ塗りの中から紫の腕だけがにょっきり伸びてくる描写は、彼女が紙面に付着した黒インクの延長上に存在しているかのようです。


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(茨歌仙7巻80頁。頁の裁ち切り右上隅から吹き出しが出ているのも「書籍の外側からやってきた」感がある。) 

 

紫は境界を操る能力の持ち主であり、求聞史紀によると絵や物語の中にも入り込むことができるらしい。鈴奈庵43話における紫は、作品内世界と読者のいる現実世界とを隔てる、紙面という無限小の薄さの中に座っています。なんとなく三月精の「2つの世界」を思い出しますね。


無論、話している間だけコマの外側でスキマの中から現れて、話し終わったらさっさと帰っていっただけの可能性もありますが、もしかしたら紫は我々の居る現実世界から鈴奈庵の紙面に侵入しているのか、あるいは幻想郷から見ると我々のいる世界も絵か物語として見えていて、紫が幻想郷側からこちら側へと戯れにはみ出してきたのか、などと妄想してみると面白い。いきなり出てきて櫓の上の半数の人間には分からないスキマネタを話し始めるのも、どうせ東方ファンであろう読者への目配せであるようにも思える。

 

虚構と現実

そもそも鈴奈庵全体、あるいは深秘録あたりからの神主の表現やおまけテキストなどにおけるSNSの問題への言及を鑑みると、最近の東方Projectには、虚構と現実の境界、リアルとフィクションの区別を寓話的に問うような意識が共通しているように思います。鈴奈庵6巻で言えば冒頭の38・39話「情報の覇者は萃か散か」はまさしくそうした主題の話です。

深秘録で登場した菫子にしたって、外界で夢を見ている間は幻想郷内にいるという設定は明らかに荘子の「胡蝶の夢」を参照していますし、胡蝶の夢とは「夢と現実ってどっちが本物なのか分からないよね」という話であって、彼女の設定自体が虚と実の境界を問うものになっています。

宇佐見菫子という名前も蓮子との血の繋がりを示すとともに「菫色(薄い紫)」への言及を含んでいるように思いますし、菫子自体にも何かしら境界に関わる要素が含意されている?もしかしたら今後紫との繋がりが示されるかもしれません。

菫子の設定については、虚実の境界に関連した神主の東方ファンに対する痛烈な皮肉が込められているような気がしますが、それはまた今度。

 

茨華仙での紫はなにやら企んでいるらしく、急速に黒幕っぽい存在感を増しました。一方のマミゾウはハラペコ鬼に一杯食わされた挙句クッソ寒いダジャレをかましてしまうなど、ここにきて失点が目立ちます。果たしてこのまま古参腹黒の紫が再び黒幕ポジションに返り咲くのか、ここから新参腹黒マミゾウが巻き返すのか、新旧老婆抗争の続く中、レミリアの背後で謎の老婆が静かに微笑んでいる……

死ぬの怖くないですか

 皆さん死ぬの怖かったり怖くなかったりすると思うんですけど、私は「自分がいつか必ず死ぬという事実」がもうそれこそ死ぬほど怖くて、自分が死ぬ時の光景を想像するのが止まらなくなって3ヶ月ほど不眠状態になったことがあります。

 

 ところで今私は「自分が死ぬ時の光景」と言いましたが、この言葉を聞いて皆さんどのような光景を思い浮かべますか。病院のベッドで家族に見守られていますか。事故死とか自殺とかですか。その光景とは、自分が死んでいく姿を俯瞰とか真横とかから見ているショットですか。それとも自分が見つめている病院なり空なりの、自分の視界ですか。私が不眠になった時に囚われていたのは、自分が死ぬ時に自分が見聞きしている光景、自分の死を自分の内側から見ている状態の想像でした。自分の意識、あるいはそこに現れている諸々の現象が、徐々にあるいは電気を消すようにパチンと消えて、そして消えたことを認識し覚えている私も消えて、それで、その後どうなるのか?

 こうした思考が永遠と続き、夜の闇が自分の意識の消滅を隠喩しているかのようで、夜暗くなると眠くなるどころか意識がハッキリし始めるのでした。恐怖している間は全身の皮膚が風呂に投入されたバブのように泡立っているかのような感覚があり、自分の皮膚を感じているのは皮膚ではなくてあくまで脳なんだなということを実感したときでもありました。

 我々が死ぬ際、死後の世界なるものは存在しないと仮定して、我々は生まれる前と同じ虚無に、今度は生み出されるのではなく吸い込まれていくような感じになると思うんですが、当然感じる疑問として、我々がこれまで積み重ねてきた記憶とか、あるいは自分が今死んでいくということを感じている「この私」、他の人格たちが私と同じく持っていると思われる匿名的・同質的な「私」ではなく、究極的に私的なものして言及される「ここにいて、見たり聞いたり感じたりしている、この私」はどこに行くのかというものがあると思います。どこに行くかと言えば、そもそもそんなことを問うこと事態にあまり意味はなく、お前は自分が生まれる前に何処にいたのかと訊くのかということになってしまいますし、これまで私を構成していた物質的な条件がバラバラになり、端的に言えば消滅するということなのだと思います。

 こうしたことを考える際、自分が生まれてから死ぬまでに何を為すかとか、何を遺していくかなどは、自分がこれから死んでいくということに対して何の慰めにもなりません。問題なのは自分がこの世で何かを為したとか、死ぬことで何が無駄になるのかではなく、その「生きている間に何かを為したり無駄にしたりすること」を可能にしていた条件であるところの、何物にも先立つ超越論的なものとしての「この私」が消滅してしまうのだ、ということに対する恐怖です。これは全く感情的なものです。生まれたことの意味とか喜びとかの損得は、全てそれらに先立つ条件としての「この私」の後にやってくるものであって、「この私」が消滅するということに損得勘定が介入する余地はありません。私が問題にしているものは損得勘定よりも前にあるものだからです。私は自分の財産とか家族との繋がりとか、あるいは意識とか魂を失うのが惜しいから死ぬのが怖いのではなく、ただ端的に怖いのです。おそらくこの恐怖はあらゆる概念的思考の及ばぬ領域にあり、だから私はずっと答えの出ない思考を繰り返していたので、不眠でした。

 恐怖からとりあえず今脱出できているのは、「死ぬことの恐怖から脱出するには死ぬしか無い」という、根本的には何の解決にもなっていない答えを皮肉交じりに受け入れて、思考を一旦保留することに成功したからです。もちろんこれは保留でしかなく、たぶんそのうちまたあの恐怖が私を襲うんだと思います。

 

 人間が不安を抱えたときはどうすればいいでしょう。そう、誰かに相談するのが良いですね。私も友人や家族などに死の恐怖について相談しました。死ぬのが怖いのは皆だいたい同じらしく、「分からんでもない」というような反応が返ってきますが、しかし皆が口にするのは「死ぬ時痛いのは嫌だよね」とか、「友達や家族に会えなくなるのは嫌だよね」とか、「だからこそ生きているうちに悔いの無いようにしたいよね」といったような、現世的な関心に依拠した恐怖ばかりです。そりゃそういうのも怖いですし、私も痛かったり両親が死んだりしたら泣きますけど、でも僕が怖いのはそうした諸々のことを私が怖がることができるようにしている条件である、いま何かについて意識しているところの「この私」が、永久に消滅するときがどうやらいつか来るらしい、ということであって、生きてる間に自分が死ぬ以外の何が起きようが最悪諦めがつく。もしかしたら、「この私」というのはどこまでも私的なものなので、そもそも他者に本当の意味で理解してもらうのは不可能なのかもしれません。私はガッカリしました。

 しかし、だからといって私が恐怖しているところのものを彼らに上手に説明して、首尾よく彼らに理解してもらえたとして、そうしてしまったら彼らもまた私と同じ恐怖に囚われることになるかもしれませんし、私は自分の味わっている地獄を他人にも味わってほしくないので、「うんうんそうなんだよね痛いの怖いんだよ」というように相手に「私はあなたに相談を受けてもらったよありがとう」的な感じの応対をして、結局何も変わらないまま終わります。

 

 でもやっぱり誰かに聞いてほしいので、僕とあまり関係ない匿名的なあなたに投げかけるものとして、こうして書いてみました。